外食子会社から本社の経営企画部に部長として戻り、経営計画策定などを手がけ2年9カ月が過ぎた。2000年3月、当時の田中浩二社長、長網良晃専務とグループ会社の現況を話し合う場に呼ばれた。専務が聞く。「一番の問題は」。即答した。「JR九州フードサービスが3年連続で赤字になりそうなことでしょう」。私が再建した外食事業は、離任した年から赤字に逆戻りしていた。
「君にまた苦労をかけることになるが」と専務。隣の社長もうなずく。「フードサービスの社長に戻ってくれ」。これを言うために呼ばれたのか。よし、やってやろう。
同年6月、3年ぶりに昔と同じ椅子に座ったが、すぐ立ち上がり現場に向かう。鹿児島の店で焼き鳥を見て驚いた。「肉が小さい……」
不振の原因がわかってきた。えてして後任とは前任者の逆をやりたがるもの。私の次の社長は人件費削減を狙い焼き鳥を東南アジアからの冷凍物に変え、人気の秘訣だったボリューム感と手作り感を失っていた。客は感動できず、売上高は2割から3割減。カレー店も自家製カレー粉をやめ、業務用レトルトに変えて売り上げが半減した。
「手作りに戻したい」。店長らの要望を受け、倉庫にしまっておいたコンロや鉄板が調理場に戻された。外食業の本質はメーカーであり、流通業に近づくほどダメになる。業績はV字回復した。
夢がかなうということは、その夢が夢でなくなることでもある。次なる夢を描かなければ組織は停滞してしまう。夢があるから人も組織も進むべき方向を見失わず、気も満ちてくるのではないか。通期黒字の見通しが立った秋頃、私は次の夢として東京進出を店長会議で宣言した。
以前フードサービスの社長を務めたとき、「うまや」という、食材にこだわり価格も高めな焼き鳥居酒屋の店を考案し、福岡の人気商業施設「キャナルシティ博多」に出店した。駅以外への出店は初めてだった。自分たちの力が駅以外でも通用することを確かめたかったのだ。次は九州以外の地でも証明したい。
親会社が九州というホームグラウンドにどっぷり漬かる中、その線路が走っていない地域に子会社が勝手に出て行く。面白いではないか。周りは大ぼらと思ったようだが、私は宣言した翌日から東京の物件情報を集め始めた。
同年12月、土地にあたりをつけ始める。年が改まった1月、部下2人と丸2日間、都内10カ所ほどを見て回った。日比谷、池袋、新宿に候補を絞るがどこか物足りない。
「最後にとっておきの物件を紹介しましょうか」。連れて行かれたのは赤坂。野良猫が戯れる神社の脇、路地の奥に木造の屋敷がある。大都会の真ん中であることを忘れる立地だ。ひと目で気に入り即決した。表札に「喜熨斗」とある。読み方もわからない。案内してくれた不動産屋さんが言う。「きのし、と読みます。スーパー歌舞伎の市川猿之助さん(先代、現・猿翁)の本姓ですよ」「ええっ」
縁のなかった伝統芸能の世界だが、舞台を鑑賞し楽屋にもお邪魔した。3階建てに改築し1、2階を当社が賃借。3階は一門の稽古場にすることになった。上の階に伝統芸能の稽古場があるというだけでわくわくする。猿之助さんには店の演出もお手伝いいただいたうえ、「お店の広報宣伝部長を引き受けましょう」とまで言ってもらった。今も雑誌などで人気の店に選ばれている。
(JR九州相談役)
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