転職「35歳限界説」は消えた
「会社で培った経験を生かし、中小企業の労務改善をサポートしたい」――大手製造業に勤めていたAさん(50代)は、在職中に「社会保険労務士」の資格を取得。2022年冬に早期退職し、東京都内のレンタルオフィスで自身の事務所を開いた。
社労士は主に中小企業と顧問契約を結び、健康保険や年金といった社会保険などの書類作成や申請手続きを担う国家資格だ。Aさんは労務に長く携わった経験から「中小企業も『働き方改革』に向け専門的なアドバイスを求めている」と一念発起。今後はコンサルタントとして顧客企業に人事・労務管理全般の改善策を助言していくという。
「人生100年時代」を見据え、キャリアチェンジに踏み切る人が増えている。働き方は様々あるが、終身雇用にこだわらず転職や起業をするのも選択肢。総務省の労働力調査によると、新型コロナウイルス流行前の19年は転職者数が350万人を超え過去最高を記録した。コロナ下で減ったものの22年は増加に転じた。足元で35〜54歳の転職者も伸びているのが特徴だ。

終身雇用を前提とした日本では、長らく転職の「35歳限界説」が唱えられてきた。しかし幅広い職種で人手不足が深刻化するなか、企業側の中途採用ニーズが近年高まっている。
キャリア相談を手掛けるキャリエーラ(東京・港)の藤井佐和子社長は「35歳というボーダーラインは過去のものになり、一定のスキルを培った40代以上に対する採用意欲が非常に強い」と指摘する。
IT関連の資格、転職で引き合い強く
キャリアチェンジに役立つのが、本人の技能を証明する資格だ。職業人として経験を積んだ中高年は、資格取得など学び直しにも職務経験を生かしやすいタイミングといえる。ただ資格にはデジタルや会計、経営、労務など多様な分野があるうえ、難易度や勉強時間によってもタイプが異なる。まずは資格取得に向けて自身のキャリアプランを意識することが重要になる。
例えば転職を目指すなら、最近ではIT(情報技術)関連の引き合いが強い。IT分野では国家試験も多い。実務経験があれば、企業内でITを活用した事業戦略を組み立てる「ITストラテジスト」や、サイバーセキュリティーの専門人材となる「情報処理安全確保支援士」といった難関資格がある。
会計スキルでは日商簿記検定が長い歴史を持つ。最難関の「簿記1級」は転職時に経理部門などで高評価を受けやすい。
英語能力テスト「TOEIC」もビジネスの資格として重視されるケースがある。テストを運営する国際ビジネスコミュニケーション協会の調査では、企業が海外部門の社員に期待する平均スコアは690点。ただ、転職時に一定の英語レベルとして評価するのは800点以上とする企業が実際は多いようだ。

起業にも役立つ資格では、社労士のほか「中小企業診断士」が挙げられる。経営コンサルタントを認定する国家資格で、中小企業の経営診断やアドバイスを担う。「不動産鑑定士」や「税理士」といった資格も独立志向の中高年に人気だ。
また、個人の資産形成への関心が高まっていることを背景に、ファイナンシャルプランナー(FP)の受験者も増えている。FPは難易度に応じて複数の国家資格や民間資格があり、キャリアプランに合わせて取得を目指すのも一案だ。
もっとも、資格だけでキャリアチェンジが成功するわけではない。実務経験を評価する企業が圧倒的に多い。社労士でFPの井戸美枝氏は「自身の経験や人脈を有効活用する観点から学び直しを検討し、スキル分野が重なる資格を複数取得するのも選択肢になる」と助言する。
資格取得の費用は教育訓練給付で
難関資格を取得するために教育機関などを使うと費用がかかる。こうした社会人のリスキリングを支援する公的給付が「教育訓練給付制度」だ。雇用保険に加入していれば一定の条件で利用できる。厚生労働大臣が指定する講座を修了してハローワークに申請すると給付を受けられる。制度の仕組みを理解して、家計の負担を抑えたい。
給付対象は約1万4000講座あり、制度は大きく3種類に分かれる。「一般教育訓練給付」は英語能力テストや簿記など仕事に役立つ資格取得に幅広く対応し、支給額は受講費用の20%(上限10万円)だ。「特定一般教育訓練給付」は社労士や税理士といった特定の仕事に不可欠な資格取得の講座などが対象で、費用の40%(上限20万円)が支給される。

最も支給額が大きいのが「専門実践教育訓練給付」だ。対象は、看護師など学ぶのに時間がかかり特定の仕事に必須の資格や、キャリアコンサルタント、専門職大学院など。受講費用の50%(年間上限40万円)が最長4年にわたり支給される。さらに資格取得後1年以内に就職するといった要件を満たせば、費用の70%(同56万円)に支給額が引き上げられる。
教育訓練給付の対象は厚生労働省のサイトで簡単に検索できる。給付を受けるには雇用保険に一定期間加入していることなどが必要だ。条件を満たせば何度でも利用できるが、前回の受講から3年以上が経過していなければならない。受給資格などは管轄のハローワークでも確認してくれる。
中高年の起業が活発化
長年の経験やスキルを武器に自分だけのペースで働きたい人は、自ら事業を起こすのも選択肢になる。しかし安易な起業は思わぬ失敗を招きかねない。起業する際のポイントや注意点をおさえておこう。
中高年の起業は活発化している。日本政策金融公庫総合研究所の新規開業実態調査によると、開業者に占める50歳以上の比率は22年度に26.8%に達した。50歳以上を含む開業者全体に起業した理由や目的を聞いたところ、「自由に仕事がしたい」「収入の増加」「経験・知識や資格を生かしたい」といった回答が上位に挙がる。
"起業熱"の高まりにはコロナ禍の影響もありそうだ。テレワークの普及などで在宅時間を有効活用する意識が広がり、思い思いのペースで働きたいと考えてキャリアの方向性を固めた人や、以前から起業に関心があった人が具体的な動きに踏み出しているとみられる。

中高年の起業を支援する銀座セカンドライフ(東京・中央)では、22年の相談件数がコロナ前の19年比で2倍超に増えた。片桐実央社長は「コロナ下でタイミングを見計らっていた中高年が足元で起業準備を加速させている」と話す。
起業の費用は減少傾向、公的支援も
起業にかかる費用が減っていることも追い風だ。固定費が比較的少なくて済むネットビジネスや、業務を効率化するITシステムの広がりを背景に、開業費用は減少傾向にある。日本公庫の調査では22年度の中央値は550万円と、1991年度の調査開始以来、過去最低を更新した。

ただ、退職前と比べて収入が減った中高年にとって、開業費用の負担は小さくないだろう。虎の子の老後資金が減ってしまうリスクに、ためらいを感じる人もいそうだ。そこで起業に際しては、公的機関などの支援制度を活用して事業資金を調達するのも一案だ。
例えば、東京都の「女性・若者・シニア創業サポート事業」は、55歳以上を対象に1500万円(運転資金は750万円)を限度に固定金利1%以内で低利融資する。都内の信用金庫や信用組合と連携しており、融資だけでなく専門家から資金計画や販路開拓などのアドバイスも受けられる利点がある。

日本公庫も55歳以上を対象に含む融資制度「新規開業資金(女性、若者/シニア起業家支援関連)」を手掛ける。新たに事業を始める人や事業開始後おおむね7年以内の人に、7200万円(運転資金は4800万円)を限度に融資する。技術やノウハウに新規性が認められると、特別な金利が適用される。
返済不要の助成金もある。東京都中小企業振興公社では、指定のインキュベーション施設の利用など条件を満たすと最大300万円を助成する。全国の自治体でも多様な創業支援制度が整えられており、継続的な情報収集がカギになる。
開業3年で黒字転換が目安
起業後に注意すべき点は何か。初期は一般に赤字からのスタートになるが、ある程度の収益見通しは立てておきたい。
片桐氏は「開業して3年間で投資回収を終え、トータルで黒字にできるかが事業継続の目安になる」と助言する。そのため、事業開始後3カ月をテスト期間と位置づけ、もし想定した顧客からの反響が乏しければ迅速に方針を転換すべきだという。当初の計画にこだわりすぎることで経営自体が失敗し、家計が圧迫されるケースがあるからだ。
起業後に想定通りの収入を得られるとは限らない。中高年は失敗を取り返すのに費やせる時間が若者に比べ短いだけに、安易な起業はリスクが大きい。起業を目指すなら、やりたいことや自身のスキルをしっかり見極め、現実的な事業計画を立てる準備が欠かせない。
プロに聞くシニアの学び直しのポイント
「資格は実務経験のスキル補強」キャリエーラ社長 藤井佐和子氏
リスキリングはキャリアチェンジの文脈で捉えられる傾向があるが、転職希望者だけでなく現在の会社で働き続けたい人にも欠かせなくなっている。経営環境が大きく変化するなか、多くの大企業が早期退職を募集するなど、内部人材を入れ替える動きが活発だ。従業員に求められる能力が高度化・多様化しており、これに対応できない人は結果的に会社から離れざるを得ないケースが出てきている。スキルがなければ、大企業でも長期雇用はもはや安泰ではない。
リスキリングでは資格取得を考える人が目立つ。もちろん資格は大きな武器になるが、資格を持つだけでキャリアチェンジが成功するわけではない。転職時などに重視されるのはあくまで実務経験。資格は実務経験のスキルを補強する形で生かしやすい。
したがって資格取得を目指す場合は、まず実務で培ったスキルを見定め、そのスキルを高めるのに役立つ資格を選ぶことが非常に重要だ。雇用流動化の時代には、自身の「スキル軸」を意識して、キャリア磨きを続けることがカギになる。
「起業はビジョン、強み、市場性が大切」銀座セカンドライフ社長 片桐実央氏
起業を準備するうえでは、3つの領域を意識するのが大切になる。1つ目は「やりたいこと」で、事業で実現したいビジョンをしっかり考える。2つ目は「できること」。これは事業に生かせる自身の強みといえる。3つ目は「市場性」で、実際にその事業で売り上げが立つかどうかがポイントだ。この3つが重なる領域が起業に適したテーマとなる。
もっとも、最初からすべてを満たした状態でスタートするのは難しいだろう。だからこそ顧客ニーズへの感度を高め、事業を柔軟に対応させる工夫が必要になる。例えば、自身が100%の内容を提供したくても、顧客が70%を求めるなら、70%にとどめるべきだ。とことん顧客ニーズをくみとることがリピーターにつながる。
起業した分野でのスキルが高くても、このような顧客ニーズに適応できない人が少なくない。その意味では、起業時の目標や理想にこだわりすぎないことも大切だ。起業して特に半年程度は、想定した顧客の需要動向をしっかり見極めるようにしたい。
(阿部真也)
コメントをお書きください