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不動産投資は人間関係こそが資産 ケン・チャン ペイシャンス・キャピタル・グループCEO(人間発見)

「ケンちゃん」。日本の大手企業幹部やオーナー経営者から親しみを込めて、こう呼ばれるシンガポール人がいる。不動産投資会社ペイシャンス・キャピタル・グループの創業者兼最高経営責任者(CEO)のケン・チャンさん(55)だ。シンガポールの政府系ファンドGICに入社して以来、20年以上、日本の不動産投資に関わってきた。今は妙高高原のリゾート開発に注力する。

妙高山のふもとにある新潟県妙高市杉野沢や近隣地区の一帯に、スキーを中心に一年中、国内外の観光客が楽しめるリゾート街をつくろうとしています。ホテルや飲食店、アパレルブランド、レジャー・教育施設を誘致する計画で、既に東京ドーム約40個分にあたる200ヘクタール超の土地を取得しました。開発は4段階で、まず2026年に2つのホテルと別荘が完成する予定です。目指すのは北米最大級のスキーリゾート、カナダのウィスラーのように、スキーに来た観光客が徒歩で散策し、移動できる街です。

外資が自分たちの利益のために開発したといわれるのは本意ではないため、地元の自治体や議会、金融機関、企業に相談しながら、一歩ずつ計画を進めています。地元の若手起業家が営むコーヒー会社に出店してもらいますし、開発資金を賄う400億円規模のファンドには日本の金融機関の出資も決まりました。

豊かな自然資源を持つ日本の観光産業は成長の余地が大きいとみている。

妙高高原に最初に可能性を感じたのは、15年の北陸新幹線の延伸開業後にJR東日本の清野智会長(当時)と会食した時でした。「金沢まで新幹線で行けるようになったのはよいが、コンテンツが足りないんだよなあ」。ご本人はそうつぶやいたことを覚えていないかもしれませんが、長野、飯山、上越妙高の3つの新幹線駅に囲まれた立地に「ここだ」と興奮しました。

ホテルオークラ創業者の大倉喜七郎が妙高山の中腹に赤倉観光ホテルを建設したのは1937年に遡ります。西武鉄道グループを率いた堤義明氏らも妙高高原でスキー場を開発しました。しかし、バブル崩壊後は日本の実業家による開発は下火になっていました。

政府は2030年に訪日外国人旅行者数を6千万人に増やす目標を掲げてきました。空港や外国語を話すスタッフといった受け入れ体制や、魅力的な観光資源・施設さえ整えば十分達成可能な数字です。妙高高原の再開発を通じて、大都市圏だけでなく地方にも人の流れを呼び戻したいと考えています。

日本で生まれ、通算の在住期間は30年近くになる。日本人のように日本語を読み書きし、日本人のように考えるメンタリティーが仕事の上でも強みとなった。

日本人が基本的にノーと言わないように、私もノーとは言いません。2次会のカラオケでも、週末のゴルフでも、年末年始の海外旅行でも、誘われれば自分のお金を払ってお付き合いします。特に独身だった40代は週末もゴルフやテニスでスケジュールが埋まっていました。上下関係を守り、先輩には敬意を持って接し、受けた恩義にはお返しすることを心がけています。

もともと人との付き合いが好きな外向的な性格です。沖縄に行けば、地元の人と沖縄の伝統的な楽器、三線(さんしん)に合わせて沖縄民謡を歌います。カラオケでは、福岡県由来の歌謡曲だけを歌う「福岡縛り」や「サザンオールスターズ縛り」といった注文にも対応できます。どの地域のどの年代の人とも、とことん付き合うのが私の信条です。

医師だった父の赴任先の日本で6歳まで育った
医師である父の赴任先の日本で生まれ、6歳まで育った。

父が勤務する病院は地下鉄丸ノ内線の中野富士見町駅の近くにあり、両親と私はそのすぐ近くの医師寮に住んでいました。1960年代の日本は今と比べてまだ貧しく、キッチンや風呂は共同でした。その分、人間関係は非常に親密で、皆が家族のように生活していました。父、母共に華人系シンガポール人ですが、家庭での会話は日本語。私は当時、日本語しか話せませんでした。今でも日本語が最も得意な言語です。

その後、父の転勤で世田谷区に移り、地元の幼稚園に通いました。園児の名前はひらがなで書かれているのに、私だけカタカナでした。「ガイジンなのに、なぜ金髪じゃないの」といぶかしがられました。外国人は白人というイメージが支配的な時代だったのです。名前の表記以外は日本人の子供と同じで、ウルトラマンのシリーズや仮面ライダーをテレビで見て育ちました。習字の全国大会で入賞したこともあります。

小学生になると、シンガポールに移り住んだ。

両親は私が英語や中国語の教育を受けるのが重要だと考えて、私のためにシンガポールに戻ることを決めました。東部のチャンギ地区にある中華系の小学校に入学しましたが、カルチャーショックが大きく、当初は大変でした。1970年代前半のシンガポールには、日本が侵略した第2次世界大戦時の記憶がまだ色濃く残っていました。日本語しか話せなかった私は「おまえは日本人で敵だ」といじめられました。

当時住んでいたのは、祖母の家で私の家族のほかに、伯父の一家も同居していました。両親には多くの友人がいて、頻繁に家に来る友人の中には日本人や日本語を話すシンガポール人がいました。日本の幼なじみとも文通を続けており、シンガポールでも日本への関心は途絶えませんでした。

中学生になると、アイドルや歌謡曲に夢中になりました。文通相手からカセットテープや楽譜を送ってもらい、オリコンチャートの上位の歌詞をすべて暗記しました。一番好きだったのは、たのきんトリオ。アイドル雑誌「明星」や「平凡」の発売日には、シンガポールの日系書店に買いに走りました。歌詞の意味を知りたいが一心で漢字を勉強し、日本語の能力も高まりました。

2年半の兵役を終え、大学に進学する際に再び住む場所を変える決断をする。

進学先として当初憧れていたのは、慶応義塾大学でした。最高位の日本語能力試験にも合格していましたが、「日本の大学に行けば、日本語だけしか使わず、英語力が落ちてしまう」という考えが頭をもたげました。それなら日本人も多く住む海外の都市に行けばいい。米国のハワイかカリフォルニアで迷った末に選んだのが、ロサンゼルスの南カリフォルニア大学でした。

大学ではビジネスを専攻し、シンガポール人会に所属しただけでなく、日本人会の副会長とアジアビジネス会の副会長にも就きました。米国各地から集う学生だけでなく、インドネシア、タイ、香港など多様な出身国・地域の学生と知り合い、国際的な視野を身につけることができました。今でも日本人会などのメンバーとは交流が続いています。

就職を意識し始めた大学3年生の時です。大手金融機関モルガン・スタンレーの採用担当者がキャンパスを訪れました。当時の第1志望はコンサルティング会社でしたが、友人から誘われ、面接を受けてみることにしました。面接官は日本人と米国人で、1回の面接であっさり内定が出ました。バブル期前後の外資系投資銀行は日本語と英語の両方を話せる学生を熱心に探しており、私の日本語の能力が有利に働いたのだと思います。6歳まで育った日本の土を再び踏んだのは、1992年9月、25歳の時でした。

GIC時代は年間100ラウンドをこなしていた(左から2人目がチャン氏)
日本のモルガン・スタンレーのIT(情報技術)部門で約1年間働いた後、同業のスミス・バーニーの株式営業に転職した。

生命保険会社や投資顧問、信託銀行といった日本の機関投資家にアジア株を売り込むのが仕事でした。当時は中堅・中小の生保だけで10社以上ありました。金融機関の集まる丸の内や日本橋だけでなく、渋谷や中目黒にも推奨銘柄のリポートを持って、通いました。都内のどの地域にどんなオフィスビルがあるのかを把握できたことは、後に不動産投資に携わる際に役立ちました。年に何回かは機関投資家を連れて、インドネシアやマレーシア、シンガポールなどの企業を訪問しました。

スミス・バーニーが当時出資していた証券会社の株式を売却したのを機に、私は買収した側の欧州系金融機関に移籍し、1995年にシンガポールに戻りました。日本の機関投資家だけでなく、シンガポールに拠点を置く外資系金融機関向け営業の担当者に就きました。アジア通貨危機の際には何人かの同僚が職場を去るつらい経験をしました。

アジア有数の政府系投資ファンド、シンガポールのGICから声がかかったのは2000年だった。

GICは当時、日本の不動産の入札で負け続けていました。てこ入れのため、日本語が話せて、金融機関の勤務経験があるシンガポール人を探していたのです。入社前は不動産市場についての知識は皆無でしたが、すぐに不動産の面白さにとりつかれました。

これまで携わってきた株式市場は世界中の投資家が売買に参加し、自らの相場の見立てを競い合う世界です。これに対して不動産は1人の買い手を見つければ、売買が成立します。最も高い価格を提示した投資家に必ずしも売る必要はありません。また建物のデザインやリノベーションのアイデア、誘致するテナントの組み合わせによって、不動産の価値を高めることができます。顔の見えない無数の相手と競い合うのではなく、属人的に人と関わりながら、買い手や売り手を探っていく特性が私の性に合っていたのです。

初期に手がけた案件に川崎市のオフィスビル、川崎テックセンターの取得とその後の売却があります。当初売却先に決まりかけていた金融機関が社内の承認を取ることができず、別の買い手を探す必要に迫られました。私はある外資系ファンドの取得意欲が強いことを嗅ぎつけ、最初の買い手候補と合意していた価格から、さらに30億円売却価格を引き上げました。強気の読みは当たり、その価格で売買契約は成立しました。あらゆるシナリオを念頭に置きながら、交渉に臨み、自分の読みが的中した時の快感は何物にも代えられません。

04年には日本に赴任し、GICの駐日代表として案件の獲得に力を注いだ。重視したのは企業幹部との関係構築だ。

一度知り合ったら、定期的に会い、関係を深めようとしました。その一つにスターツコーポレーション会長の村石久二さん、NSGグループ会長の池田弘さん、大和ハウス工業元社長の大野直竹さんとの「MIKO会(みこうかい)」があります。3人と知り合ったのは私がまだ30代の時で、その後四半期に1度の頻度で会食を続けています。

見習いのような存在だった私に日本のビジネスのやり方を教えてくれたのは、先輩の経営者たちでした。知り合った当初に部長だった人が役員になり、社長に昇格していく。そんな関係なので、社長になっても遠慮なく付き合うことができるのです。さらにその人から企業幹部を紹介され、私も知り合い同士をつなげて、関係を太くしていきました。

不動産について知りたいと言われれば、惜しみなく知識やノウハウを伝えました。普段は不動産という実物の資産を扱っていますが、お金では測れないこうした人間関係こそ、私にとって最大の資産なのです。

福岡の複合商業施設「ホークスタウン」の買収・売却にも携わった
GIC時代の代表的な案件が、2007年の福岡市の複合商業施設「ホークスタウン」買収だ。

ホークスタウンは当時、球場、ホテル、商業施設の3施設があり、ダイエーから米国の投資会社に所有が移っていました。福岡ソフトバンクホークスが球場を本拠地として継続利用すれば、安定的な球場使用料が見込めました。

しかし、当時のGICは野球場を買収した経験がなく、本社の投資委員会を説得する作業は難航しました。ソフトバンクグループの信用リスクを慎重に審査した上で、投資委員会の承認を仰いだ際、後押ししてくれたのは米国の同僚でした。ベースボールの本場にいる彼らは野球ビジネスの重要性と収益性を理解していたのです。

ソフトバンクホークスが11年11月に日本シリーズを制する少し前に、ソフトバンクの孫正義社長に球場の買い取りを打診しました。当時、同社グループは年間約50億円の球場使用料を払う一方で、個人向け社債を低利で発行し、資金調達していました。

低利でお金を調達できるなら、球場を取得して使用料を節約した方が有利だと判断するのではないか。そう考えて、当時球団社長で、孫さんの右腕だった笠井和彦さん(故人)などと交渉を進めました。

ソフトバンクが球団を取得して以来、初の日本一となった直後というタイミングも幸いしたのかもしれません。12年3月に870億円で球場を売却でき、大きな利益を上げることができました。商業施設部分についても、15年に三菱地所に売却しました。

読みが外れて、投資機会を逃したこともある。

20年ほど前のことです。飛行機と車を乗り継いで、北海道のニセコを視察しました。当時からスキーリゾートとしての魅力は高かったのですが、他に遊ぶ場所が乏しく、観光地として人気は出ないと結論づけました。海外の旅行客が殺到するリゾートに変貌するとは、予測できませんでした。

後に気づいたのは、欧米の富裕層向けリゾートの多くはビーチではなく、山岳地にあることです。山岳地に別荘を所有することが欧米ではステータスになっているからです。現在注力する妙高高原の開発に、ニセコでの貴重な失敗の教訓を生かそうとしています。

20年近く勤めたGICを19年に退社し、不動産投資会社ペイシャンス・キャピタル・グループ(PCG)を創設した。

GICに入社した00年当初から、いずれは独立して、自分の会社をつくりたいと夢見ていました。最初に辞表を提出したのは13年でした。その時は当時の上司に「2年間かけて後継者にノウハウを引き継いでほしい」と慰留されました。

その後、GICの最高経営責任者(CEO)に就任したばかりのリム・チョウキャット氏に「そろそろ辞めさせてほしい」と切り出すと、「あと2年だけ私を支えてくれ」と。2年後にリム氏を再び訪ね、退社の了承を取り付けた時には、6年が経過していました。

PCGを創設する数年前から、社名をどうしようかと考えていました。Patience(ペイシャンス)は日本語で忍耐や辛抱強さと訳すことが多く、必ずしも肯定的な語感ではありません。しかし、英語では肯定的な意味合いで使っており、ペイシャントであることはファンドマネジャーにとって必要不可欠な能力です。規律を保ちながら投資機会を探り、投資決定後は長期の視点で報われるのをじっと待つ。そんな思いを込めて、社名を決めました。

PCGにはGICの同僚が加わってくれたほか、GIC時代にお世話になった三井住友ファイナンス&リースの川村嘉則元社長などにも特別顧問への就任を依頼しました。日本やシンガポールの機関投資家から資金拠出を受け、投資対象を日本に特化した2つのファンドを運用しています。

海外の観光客を増やすことはGDPを増やすのに直結すると話す
シンガポール国籍だが、シンガポールと日本で住んだ期間はほぼ半々だ。

大学卒業時の就職活動で日本企業や外資系企業を訪問した際には、面接で「日本とシンガポールの懸け橋になりたい」と訴えました。内定を得たいがために口に出た側面は否定しませんが、「懸け橋」という意識は、その後もずっと心の中に持ち続けていました。

私は日本のパスポートを持っていませんが、自分自身をシンガポール人でもあり、日本人でもあると考え、そのことに誇りを持っています。シンガポールか日本かのどちらかと対立的に捉えるのではなく、私にとってはシンガポールも日本も、共に重要なのです。

幼少時に住んでいた医師寮で生活を共にし、私を最もかわいがってくれた日本人家族の家には正月には欠かさず電話し、今も毎月1回は通っています。向こうも「今日来るなら、買い物してきて」と私に頼むような気の置けない関係です。私の両親は既に他界していますが、彼らは私の「第二の両親」のような存在です。

50歳を超えて、初めての子供を授かった。

長女が生まれた時は51歳。自らの不動産投資会社をつくる8カ月前のことで、公私ともに転機となりました。1年前には次女も授かりました。今でも平日の夜はほとんど接待の会食が入っていますが、帰宅後に2人の娘を寝かせて、翌朝も出社前の2時間は子供と過ごします。

今の自宅はシンガポールにあります。妻は日本人で、家庭での妻や娘との会話は日本語です。長女は中国語の学校に通っているので、中国語を話しますし、友達との会話を通じて英語も自然に口にするようになりました。私が日本語、英語、中国語の3カ国語を話せるのは、6歳の時に両親が日本からシンガポールに戻り、私を中華系の小学校に入れたおかげです。私も娘が日本語、中国語、英語を話せるようになることは重要だと考えています。

しかし、それ以上に重要なのは、日本とシンガポールの両方の文化を学ぶことです。娘たちにも、自分はシンガポール人であり、日本人であるという意識を持ってほしいと思っています。

オフィスに子供を連れていくことがあり、娘たちは社員になついています。スタッフにも子連れ出社を推奨しています。

海外出張は基本的に妻や娘と一緒です。会社勤めの時はそのような自由はできませんでしたが、今や独立した身分です。最高経営責任者(CEO)の私がルールを決めることができるおかげで、最高のワーク・ライフ・バランスを維持できています。

自らのファンドをつくってから約3年半。引退するのはまだ先だ。

日本の不動産市場に関わり始めた2000年当時は、60カ月の敷金が必要な取引があり、世界の慣行との違いが目立ちました。01年に日本でも不動産投資信託(REIT)が始まり、市場が少しずつ透明になっていきました。今では海外投資家も増え、市場はより洗練されています。

海外からの年間旅行者数は00年代前半は、人口がはるかに少ないシンガポールを下回る状態でした。その後、観光客を対象としたビザの要件が緩和され、今では東南アジアからも多くの観光客が訪れるようになっています。日本とアジアはコメや麺類の食文化や、観光で飲食を重視する点が共通しており、可能性はまだ大きいです。

妙高高原以外にも、静岡県の伊豆半島のリゾート開発、東京都内のホテルや首都圏の住宅投資を手がけています。海外からの観光客が増え、長く滞在してくれることは、日本の国内総生産(GDP)を増やすのに最もやさしい方法です。これまでお世話になった人たちへ恩返しをしながら、次世代に引き継ぐことができる不動産を開発していきたいです。

(シンガポール支局 中野貴司)