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スキル底上げ、高まる組織力 自発的学びで商機生む

リスキリング(学び直し)の必要性が叫ばれる中、個人の自発的学びを通じて全社員のスキルを底上げし、組織力を高める取り組みが注目されている。一握りのエリート育成とは異なり、多様な人材の協業を目指す新たな日本的経営の動きだ。実践共同体(学び合う場)による社員の相互交流も活用し、個々の学びをいかに商機や収益改善につなげるか。動向を追った。

独学の先に実践共同体

日立製作所の東京・丸の内本社。リモートワークに対応したオフィスには、所々にボックス型のワークブースがある。その中で端末に向かう人がいる。「周りの声を気にせず、英会話のオンラインレッスンに集中できる」とコーポレート広報部の穂苅裕太郎氏は話す。出社時の隙間時間にスキル向上のための独学にもワークブースが活用されているのだ。

日立は2022年10月、人工知能(AI)を活用して社員のリスキリングを促す教育システム「学習体験プラットフォーム(LXP)」を導入した。約1万7000のオンライン講座と12言語の学習に対応。約3万人が利用している。「強化したいスキルを登録すると、AIが最適の教材を推奨する」と人財統括本部グローバル人財開発部の小沢由加理氏は言う。視聴ランキング上位は英語教材が多いが、運営する日立アカデミーの松田欣浩ビジネスパートナリング本部担当本部長は「知識の幅を広げてほしい」と話す。

LXPには社員同士で学びを共有する機能もある。まず運営側で語学やデジタルトランスフォーメーション(DX)のグループを用意したが、社員が自発的に実践共同体をつくっていく可能性も広がる。同時に「全社員がデジタルの知識とスキルを持つ」(日立アカデミー研修開発本部L&D第一部長の田中貴博氏)ための底上げの研修も進める。「自分事としてDXを考えてもらう」方針だ。

パイロットも財務を意識

デジタル人材が必要なのは航空運輸業界も同じ。ただ、質の高いサービスを提供するには「専門性と人間力、幅広い知識、世界を見る力が大事」と全日本空輸(ANA)人事部ANA人財大学担当部長の石山由美香氏は話す。

ANAでは社員がビジネススキルを隙間で学べるグロービスの動画サービス「GLOBIS学び放題」を19年に導入した。加えて、新型コロナウイルス禍で苦境に陥った20年からは、誰でも自由に受講できる「人づくり講座」をほぼ毎日続けている。勤続30年以上のベテラン社員が講師になり、自らの経験で培った知識や技術をオンラインで教える。リーダーシップやチームビルディングなどの講座で学び合っている。

人間力も重視する全日本空輸(入社3年目までのグループ社員対象の相互理解とANAグループの未来を考える研修「@futureship」)

効果の一例として、経理・財務経験者による数字を読み解く講座がある。「各人が数字を仕事と結び付けて考え、収支への意識が変わり、事業構造改革やコスト削減の推進にもつながっている」と人事部ANA人財大学の引地麻衣子氏は指摘する。

パイロットも財務を意識する。「経済性と地球環境と快適性のバランスを考慮しながら、最少消費燃料で最適な高度と速度で飛行する『エフィシェント・フライト・プログラム(EFP)』をパイロットが一層意識するようになった」と引地氏。二酸化炭素(CO 2)排出量の多い航空機に乗らない「フライトシェイム(飛び恥)」の消費行動も欧州で起きている。ANAはカーボンニュートラルへの移行シナリオを策定。CO 2削減へ「運航上の改善」による効果も見込むだけに、幅広い学びが意味を持つ。

デジタルを共通言語に

「総合商社が世界で事業の可能性を広げるには、英語に加えてデジタルも共通言語にする必要がある」と丸紅のデジタル・イノベーション室副室長の大倉耕之介氏は語る。20年度から始めたのが「丸紅デジタルチャレンジ」と呼ぶ独自の技術習得・実践プログラムだ。

「デジチャレ」と社内で愛称される同制度では、従業員の興味と業務上の利用レベルに応じて22年度は「簡易データ分析」「データサイエンス」「アプリケーション」の3コースを用意した。学習時間は最高難度のデータサイエンスコースで200〜300時間。3コース合わせて過去3年間で延べ330人が参加し、200人以上が修了した。

修了者は学習成果を発表し、最優秀賞1人、優秀賞と敢闘賞が数人ずつ選ばれる。5万〜30万円の報奨金も授与するなどインセンティブも付けている。丸紅は基礎と中・上級を合わせたデジタル人財認定取得者を20年の数人から23年に200人に増やす計画を立てたが、デジチャレ効果で目標を達成できるという。

データサイエンスコースを修了し最優秀賞を受賞した金融・リース事業第二部の森田雅之氏は「実際の仕事に役立っている」と話す。森田氏はコース修了後、丸紅が出資しているモンゴルのIT(情報技術)企業に出張し、「現地技術者とスムーズにやり取りできた」と効果を実感。2月には不動産STO(セキュリティー・トークン・オファリング)事業を準備中のデジタル証券準備会社に出向、「データサイエンスの知識を生かして事業を立ち上げていく」と意気込む。

森田氏は理系の大学院卒だが、「文系学部卒でも優秀賞を受賞し、デジタル分野の仕事に生かす社員が複数いる」と大倉氏は語る。学歴や職歴を問わず誰もが挑めるデジチャレが、商社に新たなビジネス機会をもたらす。

管理ではなく、遊びの場づくりを

 日本企業は社内で人材を育成してきた。今のリスキリングは何が違うのか。企業が注意すべき点は何か。実践共同体やキャリア開発に詳しい法政大学大学院政策創造研究科教授の石山恒貴氏に聞いた。
 「VUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)の時代に企業は、短期に変化に応じて、必要なスキルの社内での蓄積を目指す。そのために企業が学び直しを進めるのがリスキリングだ。一方、リカレント教育(社会人の学び直し)は個人が主語になる。企業がリスキリングですぐに成果を出そうとすると、社員はやらされ感を持つ」
 「リスキリングを個人の動機と組み合わせれば、社員に自律性が生まれ、実践共同体が有効になる。社員は専門性が高まると、互いに刺激し合い、学び合っていく。企業は実践共同体に関与しすぎてはいけない。成果を求めて管理しようとすると、結局うまくいかない。かつて日本企業のQCサークルと呼ぶ小集団活動が機能したのも、社員の自主性を生かしたからだ」
 「ジョブ型を導入すればうまくいくという考え方は単純だ。ジョブ型には『テーラーの科学的管理法』の管理重視・創造性軽視の短所があり、欧米企業はその点の修正を進めている。企業は場づくりをしても、社員の学びの主体性に口を出さないことだ。一見、経営には無駄に思えても、実は遊びこそ大事なのだ。管理ではなく、遊びの場づくりに徹したい。社員を信じる力が問われる」