江戸時代の中期。数えでちょうど50歳のときに隠居した男は翌年、佐原村(現在の千葉県香取市佐原)から江戸に出て天文暦学を学び始める。5年後には測量隊のリーダーとして旅に出て、17年かけて全国を踏破。正確な日本地図作りに貢献する。その男、伊能忠敬の隠居後のわがままな生き方は、刺激的だ。
50代後半から一念発起 17年で3万5000キロ歩く
忠敬の行動で驚かされるのは、当時としては超高齢の72歳になるまで地図作りのため北海道から九州まで3万5000キロも歩き続けたことだ。何が原動力だったのだろう。
疑問を解くため、忠敬から数えて7代目の伊能洋さん(88)を東京都世田谷区に訪ねた。洋画家の洋さんは今も作品を描き、11月には銀座で個展を開く。自宅のアトリエでは63年間も絵画教室を続け、50人の生徒を指導している。
伊能忠敬研究会の顧問でもある洋さんは、忠敬の呼称に親しみを込めながら話す。
「隠居後、チューケイさんの人生目標は、3段階のギアチェンジをしたようです」
第1段階「天文を学ぶ」
忠敬は九十九里浜で生まれ育ち、満天の星を眺めては、星の世界に想いをめぐらす少年だった。隠居後も好奇心を持ち続け、江戸で天文の勉強をする道を選択。後に天文方に就任する高橋至時(よしとき)の弟子になる。天文方は、天体の運行や暦の研究をする幕府機関の責任者のポストだ。
第2段階「緯度1度を測定する」
当時の天文学の話題の中心は地球の大きさで、緯度1度の距離の測定に関心が集まっていた。
忠敬は「自分が日本で初めて緯度1度の距離を測りたい」と功名心を燃やす。歩測と天体観測により、深川の自宅と蔵前の天文方御用屋敷との緯度の差と距離を測定。緯度1分の距離をはじき出し、師の至時に見せたところ笑われる。「江戸と蝦夷地(現在の北海道)ぐらいの間で測らなければ正確な数値は出せない」
師の言葉を受けて「自腹でもいい。蝦夷地まで測量させてください」と願い出る。至時らが幕府に働きかけ、忠敬を隊長とする地図作製のための測量隊が発足。許可が出た背景には、ロシアの艦船がたびたび蝦夷地に接近しており、幕府が国防上、正確な地図を必要とする事情もあった。

寛政12年(1800年)、忠敬は内弟子3人、家僕2人と共に第1次測量隊として江戸を発ち、蝦夷地のニシベツ(現在の野付郡別海町)を折り返し点として180日の旅を済ませた。蝦夷地の地図を提出したところ高い評価を受け、幕府は忠敬に伊豆から陸奥(現在の東北地方)にかけての第2次測量の命令を出す。
第2次測量で忠敬は、日本で初めて「緯度1度が28.2里」という推計値を出した。これは現在の数値と0.2%の誤差しかない数値だった。
第3段階「後世の人に役立つ地図を作る」
測量の旅は、第5次より「忠敬の個人事業」から「幕府直轄の事業」に切り替わる。10次にわたる測量のうち、9次をのぞくすべてに参加した忠敬は、旅先から家族に送った手紙に「全国測量は天命によって行う」と書いている。自分のためでも幕府のためでもない。後世の人々のためなのだ。目標がさらにギアチェンジしたのである。
忠敬が息を引き取ったのは文政元年(1818年)、享年74。3年後、友人や門弟らが「大日本沿海輿地(よち)全図」(合計225枚)を完成させ、幕府に上呈した。
渡辺一郎著「伊能忠敬の歩いた日本」(ちくま新書)によれば、この伊能図は幕府提出の108年後(昭和4年)、三角測量による地図に置き換えられるまで利用された。忠敬の思いはかなったのだ。

32年間で資産20倍に 隠居後の活動資金は自分で稼ぐ
マラリア性の熱病である瘧(おこり)などの持病を抱えながらも、思いをかなえる。その原動力について洋さんは「佐原時代に身につけた測量技術やリーダーシップもさることながら、隠居の際に準備した資金に負うところが大きい」とみる。
忠敬は18歳のとき、佐原村で酒造などの事業を営む伊能家の婿養子になる。隠居までの32年間に商才を発揮し、伊能家の資産を20倍の3万両(現在の約45億円)に殖やした。隠居にあたり、忠敬はわがままな行動に出る。1万両の資産を伊能家に残し、2万両は隠居後の活動資金として我がものとしてしまった。
例えば第1次測量は、測量の旅の費用として100両、測量器具代として70両の計170両(約2500万円)を忠敬が負担したことで実現した。第3次からは100%、幕府の資金が投入されたものの、当初の忠敬の自己負担がなければ、日本地図作製の長期プロジェクトは達成できなかったというのだ。
潤沢な資金があったからこそ、ある意味、わがままな隠居後の目標ギアチェンジが可能になったに違いない。
(客員編集委員 足立則夫)
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