伊藤忠商事や丸井グループは統合報告書などで先行して開示してきた。財務情報より定量的な測定が難しいが、開示の義務化で企業間の比較が可能となるため、企業は手探りしながらの対応を迫られている。
「数値目標ありきの人事制度を見直す」。伊藤忠は岡藤正広会長(当時は社長)の号令のもと、10年に働き方改革を始めた。目をつけたのが労働生産性だ。伊藤忠の社員数は他の大手商社と比べて少なく、7割程度だ。少数精鋭を維持し、一人一人の生産性を上げることを目標とした。付加価値(連結純利益)を従業員数で割った数値を「労働生産性」として開示し、21年度の生産性は改革を始めた10年度の5倍超となった。
社外から賛否の声
生産性向上につながったのが13年度に導入した朝型勤務制度だ。夜の残業を減らし、朝にシフトすることで仕事の効率を上げる狙いがあった。インセンティブとして朝8時より前に勤務する場合は割増賃金を支給し、朝食の無料配布や朝活セミナーを実施する。朝8時より前の始業は導入前(全体の2割)から約6割と大きく伸び、残業の減少で電気代などの費用も減った。
伊藤忠は自社の女性の出生率などの指標も開示する。21年度の出生率は1.97と国や東京都の数値を上回る。一連の働き方改革で出産後の女性の復職が増えたが、数値の公表には社外から賛否の声が上がった。人事・総務部の岩田憲司企画統轄室長は「出生率の改善は働き方改革の結果であり、目標としていたものではない。誤解が生じないよう一貫性をもった丁寧な開示を行っていきたい」と話す。
人的資本の開示義務化は海外が先行する。欧州連合(EU)は14年に従業員500人超の企業に開示を義務付け、24年から対象を拡大する。米国では全上場企業が対象で、現在は開示項目の追加について法案が審議中だ。日本では23年3月期の有価証券報告書から女性管理職比率や男女間の賃金格差など6項目の開示が求められる。
売上高の過半を海外で稼ぐ荏原は、グローバルでの人材マネジメント強化に取り組む。同社は経営の長期ビジョンの1つに「人材の活躍促進」を掲げ、人材戦略やKPIを成果と同時に開示する。
重要な役職を定義し、後継者育成の計画づくりにつなげる。役割等級制度や評価制度などをグループ全体に広げる目標だ。20年にはイタリアなどで役割等級制度を導入した。人事部の陣川裕子部長は「グローバルで人事システムが統一されておらず、連結での開示が難しいものもあるのが課題だ」と話す。
遅れる人的投資
日本企業の人材への投資額は他の先進国と比べて大幅に少ない。内閣官房の資料によると、日本の国内総生産(GDP)に占める人材投資額は0.1%にとどまる。米国(2.1%)やドイツ(1.2%)を大きく下回る。開示の義務化で企業の人的資本を可視化し、企業価値を上げるための人的資本への戦略的投資を促す狙いがある。
味の素は経営戦略の推進につながる重要領域を定め、人材投資を増強している。例えばデジタルトランスフォーメーション(DX)や栄養、環境などの研修を提供する。社員全体のリテラシーを底上げする。1人あたりの人材投資額を開示しており、20〜22年度は17〜19年度実績比2.6倍の88万円の見通しだ。

「手挙げ文化」を掲げる丸井グループでは、13年から小売りやフィンテック、物流などグループ間の職種変更異動の制度を導入し、希望者は志願できるようになった。22年3月時点で社員の8割が会社間の異動を経験している。
同社はスタートアップへの投資事業も手がける。担当部署が投資し、相手企業と連携していく流れだが、なかなか共創が進まなかった。そこで20年に両社の橋渡しとなる共創チームを組成した。現在は出資先ごとに約20チームあり約200人が参画する。「専門性の高い人材がそれぞれの能力を十分にいかす働き方ができる」(丸井グループの加藤浩嗣最高財務責任者)という。
21年には出資先のヘラルボニー(盛岡市)と「ヘラルボニーエポスカード」をつくった。同社は障害のあるアーティストの作品の商品化を支援しており、カード利用金額の0.1%分をヘラルボニーを通じて作家の支援、福祉団体への寄付などに活用される。
投資家からも人材戦略や投資に関する情報を求める声は強まっている。経営陣が立案した経営戦略を実行するのは従業員の役割で、従業員の働き方や人事戦略は企業価値創造の重要な要素だからだ。
ニッセイアセットマネジメントの井口譲二チーフ・コーポレート・ガバナンス・オフィサーは「経営の取り組みがあってこそしっかりした内容の開示ができる。取り組みの有無で最初は企業間の差がでてくるだろう」と指摘する。経営戦略と連動した人事戦略や体制づくりまで踏み込めるか。企業は本質的な変革を迫られている。
人材のスキル、データ化に遅れ
――これまでも人的資本の重要性を主張してきました。

「研究会ではガバナンス改革や企業価値のほかに投資家の目線も入れて議論した。資本市場には日本の人材のあり方や人事システムがどう映るかも検討した。その結果が2020年の『人材版伊藤レポート』になり、22年には実践事例集を出した。これまで日本は人を資源と見ていたが、適切な環境を提供すれば人材の価値は向上する。言葉から変えようということになり『人的資本』と呼ぶことにした」
――企業価値を高める上で、人的資本経営はどう位置づけられますか。
「最も強調しているのは経営戦略と人材戦略の連動だ。中期経営計画を発表しても実現できない企業が多い。原因は担い手である人材のスキルが経営戦略に対応していなかったことにある。経営戦略とのギャップを可視化すべきだ。スキルのデータ化が遅れている。人事ソフトウエアなどを使って従業員のスキルを把握し、生かせる部署に配置する必要がある」
「組織個人の行動変容を促すような企業文化の醸成も重要だ。日本はメンバーシップ型雇用が中心で雇用を維持しているので、経営者もいい文化をつくれていると錯覚していた。ただ実際は上司との関係で忖度していたり、ある種の割り切りがあったりしたように感じる」
――伊藤レポートや人的資本の開示義務化で企業の体制には変化が生まれています。
「動きは顕著に出ている。他社で積んだ経験を生かせるという考えもあり、最近では一度退社した企業にも戻りやすくなってきた。個人と組織が主体的にお互いを選べる関係であるべきだ」
「投資家も企業を評価する際に人的資本の情報を見ている。開示の義務化で、企業ごとに比較がしやすくなる。ただ、企業価値にどうつなげていくかを意識して開示していないと投資家にとっては期待外れで評価も落ちてしまうだろう。表面的に義務を果たすのではなく、経営の実態のレベルを上げることが求められる。『人的資本経営』をただの流行にしてはならない」
(聞き手は大道鏡花)
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