「リスキリング」という言葉が流行しています。新しいスキルを学ぶこと自体は重要ですし、この言葉をきっかけに新しいチャレンジをすることは素晴らしいことです。日本企業が特に遅れているデジタル分野で巻き返すにはどうしたらよいでしょうか。
実は英語にはリスキリングと似たような言葉に「アップスキル」があります。日々の業務のスキル(技術)を磨くことはアップスキルと呼びます。一方で、新しい業務内容に対応するために訓練をすることはリスキリングと呼んで使い分けています。求められているのは新しいことに挑むための訓練なのです。
「リスキリングの重要性」については、2020年の世界経済フォーラムの年次総会(通称ダボス会議)でも提唱されました。しかしダボス会議は流行の言葉を取り入れようとする傾向が強く、テーマに挙がったものがうまくいくとは限りません。現在海外ではあまり注目されなくなってきた「メタバース」もテーマになっていました。
リスキリングについても、グーグルの検索数などで盛り上がっている国は日本以外にはほとんど見当たりません。岸田文雄首相が施政方針演説で触れたり、育休や産休中のリスキリングを後押しすると国会答弁したりした影響もあるでしょう。


しかし他国や他社でうまくいっている「らしい」というカタカナ用語の内容は必ず実態を確認しなければなりません。予算を獲得できる団体などが意図的に拡大解釈してはやらそうとしている可能性もあるからです。
「隣の芝は青く見える」ということわざがありますが、日本はカタカナ語に特に弱い傾向が見られます。逆に海外からどう見えるのかという事例を基に説明すると分かりやすいでしょう。
実は米国や欧州では「生きがい(Ikigai)」という言葉が17年ごろから流行しています。22年のダボス会議でも取り上げられました。日本人からすると目新しさがなく、あまり使わない言葉ですが、沖縄の長寿の秘訣などについて書かれた書籍が300万部以上のベストセラーになったことが始まりのひとつです。日本語版も出版されましたが、海外に比べてあまり知られていません。
書籍では日本の長寿ぶりが大きくハイライトされており、ほかの負の部分への言及が少ないまま「それらしい」言葉が独り歩きしているのです。ブームに便乗して世界各地で「生きがいについて学ぼう」というセミナーやワークショップが開かれ、なぜか日本人以外に人気です。ある意味リスキリングも、この「Ikigai」と同じ側面があるといえるでしょう。
これまで日本では「リカレント教育」など、学び続けることの重要性は再三いわれてきました。しかし、就業外で行うことなどが前提で生産性はなかなか向上してきませんでした。日本企業がリスキリングに取り組まなければならない背景の一つに、働く人材に「学びたい」という意欲や、企業による人材への投資が世界各国の中でも低いという実態があるからです。これは日本にとって深刻です。
デジタル分野で顕著な「学び」軽視
対話型の人工知能(AI)である「ChatGPT(チャットGPT)」をはじめとする新しいテクノロジーの広まりが加速する中で、まだ実際に手を動かして能動的に仕組みを自分で学ぼうとする人は少ないかもしれません。しかし、そうやって後回しにしておくと個人として新しいビジネスチャンスを逃して機会損失につながる恐れが高まってしまいます。
私が学生のころにも「将来は翻訳機が出るから英語なんてやらなくてもいいよ」という言い訳をして、学ぶことを否定していた同級生が多くいました。しかし実際には同級生の多くは英語が話せないことによって、留学や外資系企業などへの転職の道が閉ざされて気づかないうちに多くの機会損失を被っています。同様のことがAIの知識や脱炭素など環境問題への対処にも響いてくるのです。
これは企業にとっても大きな機会損失です。従業員は日常の業務を処理しなければなりませんが、同時に新しいこともどんどん吸収する風土がなければ、他の企業と差別化できません。もし従業員の交流範囲がほとんど社内にとどまっていたり、国内に限られていたりするようであれば、それは危険なサインです。
欧米企業は中途採用が一般的で、社会人でありつつも大学院で学んだ人を評価する文化があります。このため従業員が他社の優れたところや学問的に新しい発見を自動的に吸収する仕組みになっています。
例えば、先ほどのChatGPTにいち早く目を向けていた米マイクロソフトのサティア・ナデラ最高経営責任者(CEO)はコンピューターサイエンスや経営学の修士号を取得しています。特にコンピューターサイエンスの知見があるため新技術に対する目利きを働かせやすいのです。
しかし、日本ではいまだ経営幹部のほとんどが就職後に同一企業で働き、同じ企業文化しか経験していないため、新しい知恵を取り込む速度が遅くなっています。特に顕著なのがデジタル分野でしょう。
このような事態は、企業をプロスポーツのアスリート集団にたとえて考えてみると分かりやすいのではないでしょうか。例えば、サッカー選手の配置を換えることによって、役割は変わります。役割が変われば、伸ばすべきサッカーのテクニックも変わります。変わらなければ役割を奪われてしまいますから緊張感もあります。
もし他のチームで新しいポジションの経験があって得意な人がいれば、チャンスがあれば引き入れるでしょう。その人がどういったプレーをするかを見て助言をもらって学ぶことが多いからです。そこから内部で新たなポジションのプレーヤーを育成することが可能になります。
しかし、いきなり内部の配置換えで新しいポジションの人材を育成するのは、かなり無理があります。ビデオなどで他のプレーヤーの見よう見まねでプレーをしても、なかなか上達にはつながらないからです。
プロであれば、チーム内の選手の配置が年功序列やローテーションで決まることはないでしょう。「自分がチームへの貢献に適しているのではないか」と自ら能動的に手を挙げて、競争をくぐり抜けた人材が選ばれて決まるものではないでしょうか。しかも、この競争は国内だけでなく世界レベルで行われているものです。
これが減点主義の文化の職場であれば、手を挙げる人は少ないでしょう。新規の取り組みは、うまくいく事例が少なくても挑戦者をたたえる文化がなければ企業全体が沈んでいきます。特に日本国内では仕事よりも「学び」を軽視する傾向が強く、認識を改めなければなりません。その結果が、人材競争力の低下です。

スポーツの事例でも、いくら個人の能力が高かったとしてもチームとしての意欲が高まっていなければ、ワールドカップのように強豪チームがランク下のチームに負けることもあります。
「やる気に満ちた」組織をどうつくるか
重要なのはチームの「やる気に満ちた状態」です。海外ではサッカーなどスポーツの賭け事が合法で、賭ける際に重視するのはチームメンバーの能力はもとより、チームの状態なのです。これは企業への投資でも同じことです。
つまり、まず企業が目指すべきことは職場全体の改革も含め、やる気に満ちた状態をどうつくるかということになります。企業の雇用形態についてメンバーシップ型かジョブ型かといった議論がされますが、いずれにしてもこのポイントは欠かせません。
従業員が「何のために、この仕事をするのか」「何のために、新たな技術を身に付けるのか」「企業内だけでなく社会にどう貢献できるのか」という認識を持っているほど、仕事の取り組み方は全く変わってきます。そして、個人が新たな取り組みにやる気になっても組織内で空回りせず、しっかりと職場が応えられる環境でなければなりません。
企業が従業員のやる気を維持させたり、視野を広く持たせたりすることは一般的に難しいものです。様々な方策がありますが、そのうちの一つは身近な人が成功体験を持つことでしょう。
学生時代からやる気がそのまま続いている人はいいのですが、社会人の経験が長ければ長いほど、しがらみや制約も増えて意欲を高めることが難しくなっていくでしょう。言い換えると、新人が入社した後もやる気を維持できていないような企業が従業員のリスキリングに取り組もうとしても、表面的な対処に終わってしまう可能性が高いのです。まっさらな新卒人材にスキリングをするよりも、リスキリングはさらに難しいことです。
例えば、私の知り合いはもともと金融の職種で働いていました。業務の枠を超えて常にオンライン学習などで学び続け、情報発信をした結果、データサイエンスやAI分野の知り合いのつてもあって、時価総額1000億円以上といわれる海外AIスタートアップの日本支社長に30歳代で就任した例があります。
政府系のある幹部も、もともとデジタル分野に強い関心があり、デジタルとは直接関係ない業務をしながら最新のデジタル動向を幹部に伝え続けていたのです。すると新しいデジタル部署のリーダーに配置されたということもありました。もちろん、新しいポジションで十分な成果を出すことが求められます。
しかしこのような小さな成功体験が周りにあると、よりイメージを持ってリスキリングに取り組むことができるでしょう。そのためには、社内外で刺激を受ける友人がいなければなりません。長期的に必要になっていくだろうと新たな知識の習得をコツコツと積み上げて、自分がどんなことに興味があるのかといった課題意識を周囲の人に伝えることも必要なのです。
資格取得などの一発試験のためではなく、自分の興味を深く考えて、さまざまな人と議論を交わし、常に学び、発信する環境が必要なのです。その手段として、国内だけでなく海外にも目を向けてみてください。
現在、勢いのある国の優れた人材は自国ではなく海外で学んでいます。オンライン学習で学ぶ意欲を維持するだけでなく、リアルな環境の方が学びやすければ奨学金を得るという手段もあります。海外のトップ校であればあるほど優れた先生も集まっているので、講義の内容が分かりやすい先生も多いのです。経営幹部向けの短期コースもあります。
「英語だけど教え方がとても分かりやすかった」という体験が一つでもあれば一気に視野が広がるのではないでしょうか。広い視野で「生きがい」と「学んだ上での新規事業への挑戦」が重なるとき、日本企業は生まれ変わる可能性が高まります。
京都大学大学院総合生存学館特任准教授
東京大学修士号取得後、米ニューヨークの金融機関に就職。ハーバード大学大学院で理学修士号を取得。卒業後グーグルに入社し、フィンテックや人工知能(AI)などで日本企業のデジタル活用を推進。京都大学大学院総合生存学館特任准教授、同経営管理大学院客員教授。著書に『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』(講談社現代新書)、『2025年を制覇する破壊的企業』(SB新書)がある。
コメントをお書きください