あのころ、私は外交官になる夢を完全には諦めていませんでした。海外への憧れが芽生えたのは、母の影響もあったからでしょう。母は当時の女性には珍しく四年制大学の英文科を卒業し、英語はもちろん、フランス語、スペイン語も話せました。夕方になるといつも、ラジオの英語ニュースを聞いていました。
高校時代の三者面談で父に押し切られ、薬学部進学を余儀なくされた私でしたが、米国留学をきっかけに、また外交官の道を探ろうと考えていました。留学先は米カリフォルニア州のサンディエゴ州立大学。取得した単位を移行できるので、1年後にワシントン州のエドモンズ大学ビジネス学部に移りました。
留学時代は楽しかったですね。シェアハウスに米国人3人と住み、異文化に直接触れる貴重な機会になりました。
米国に向かう前、兄から「テニスはいいぞ」と勧められ、ラケットとシューズを餞別(せんべつ)代わりに受け取っていました。学生寮の目の前にテニスコートが5面あり、毎日ボールを追っていました。テニスは今も続けており、人生で一番長く親しむスポーツになりました。あのとき勧めてくれた兄に感謝しています。
エドモンズ大の卒業が近づき、母から卒業式に参列したいと連絡がありました。ところが母はのんきな人で、時差を考慮せずに訪米の日程を組み、現地に到着した時にはすでに式は終わっていました。
それでもめげず、「せっかくだから2人でカナダに旅行に行こう」ということになりました。人生、最初で最後となった母と2人きりの旅行は楽しい道行きでした。
これだけ聞けば、ほほ笑ましい親子のエピソードなのですが、現実は壮絶なものでした。母がやってくる直前、またしても父が突然、現れたのです。
卒業式の直前でした。なんの前触れもなく米国にやってきた父は、高校時代の三者面談の時とは違っていました。あの時は、まくし立てるように私の薬学部進学を主張しましたが、今度は真剣な顔で「頼む。会社に入ってくれ」と頭を下げるのです。
この瞬間、外交官になるという私の夢は、完全についえてしまいました。その後、父のあんな神妙な顔をみることは二度とありませんでした。
当時の天野製薬に入社したのが85年9月です。従業員に顔を覚えてもらえと、工場から管理部門まで、会社のすべての部署を2週間ずつ、3年半かけて回りました。
20代の時に、忘れられない仕事がありました。米国での不動産購入です。時代はバブル経済の真っ盛りで、日本企業の海外投資が盛んでした。父から資金を託された私は、経理部長と2人、1年間をかけて全米を回り、不動産を吟味しました。ニューヨークにもいい物件がありましたが、迷った末に購入したのが、ハワイ・ホノルルの商業ビルです。
価格は5000万ドル、26歳の若造には足が震えるような高額投資でした。このビルは2001年に売却するまで、家賃収入が利回り換算で年率8%ほどありました。最終的な売却価格も購入時より5%ほど高く、投資としてはうまくいきました。
酵素製造の天野エンザイムは兄、薬の小売りやカメラ・写真事業などを展開するアマノを私が担うことになりました。男2人の兄弟でしたが、父は幼少期から兄弟に上下の序列を付けることはありませんでした。いつも並列、同等に扱ってくれました。
兄は心やさしい人で、今でも良き相談相手になってくれています。
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