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ハワイ移民は「棄民」だったか 通説への疑問から歴史調査、資料から見えてきた豊かな暮らしぶり 川崎寿

ハワイ移民は1885年、政府監督下で実施される「官約移民」として始まった。私が暮らす広島県の出身者が最多で、94年までに1万人以上が海を渡った。これは日本からのハワイ移民全体の3分の1にあたる。

広島県は当時、地租改正による重税や凶作に悩まされていた。そこに「ハワイで稼いで帰れば蔵が建つ」という話が広がり、人々は希望をもって南の島を目指した。だが一方で「移民は棄民」という見方もある。ハワイ移民の息子である私は実態を知りたいと、本業の不動産賃貸業のかたわら、歴史を調査してきた。

コーヒーの香りがする街――。終戦直後の広島市は、子供たちからそう呼ばれた。原爆による被害を知ったハワイの親族から、名産のコーヒーや砂糖などが届いたためだ。特にサトウキビから精製した天然の砂糖は闇市で高値で取引され、地元小学校の改築資金を捻出したとも記録に残る。

広島市出身の父は1900年代初めにハワイに移民した。太平洋戦争前に帰国し、横浜で船の荷揚げ下ろし業を営んでいた43年に私は生まれた。

終戦直前に父の郷里に移った。中学時代の先生に言われた「貧乏だから移民した」という言葉に引っかかった。ハワイの親族は折に触れてたくさんの物資を送ってくれたし、周囲では裕福な暮らしができる人も多かった。なのになぜ「移民は貧乏」と言われるのか。

転機は90年代半ば。知人宅の蔵で移民のパスポートが見つかった。そこには「日本帝国外務大臣大隈重信」と記載があった。調べると、現地の日本領事事務所は官約移民の開始直後に総領事館に格上げされ、移民の支援体制が整備されていた。

移民は日本への送金や持ち帰り金を期待された面があっただろうと考えた。当時のハワイの賃金は日本に大きく水をあけており、移民が多額の送金をした例は多い。彼らは郷里の生活を豊かにするために出稼ぎに行ったと考えるのが自然だ。

日系2世の親族を頼りにハワイへ渡り、移民の背景や生活状況に関する調査の協力を仰いだこともあった。だがもくろみははずれ「興味がない」と一蹴されてしまう。理由を尋ねると「両親は日本人でも私たちは米国人だ」と冷淡に返された。ショックだったが、調査意欲に火がついた。

過去40回近い現地調査で特に参照したのは、現地で発行された日本語新聞だ。広島県出身の移民が協力して原爆からの復興を支援した詳細も記事になっている。「布哇(ハワイ)報知」によると、48~50年に集まった寄付金11万3000ドルが県に送られ、特に被害の大きかった広島市では母子寮や乳児院、助産院などの整備費に充てられた。

戦後、移民の生活誌というべき手紙など多くの資料が失われた。この状況を危惧し、97年に自宅の蔵を改装して「ハワイ移民資料館 仁保島村」を設立。オークションにかけられた資料などを買い集め、現地での収集物と一緒に展示している。

約30年にわたる調査を基に、2020年には「ハワイ日本人移民史」を自費出版した。移民史に詳しい元大阪商業大学教授の飯田耕二郎氏からは「研究者向けの改訂版を出すべきだ」とお墨付きをいただいた。現在は翻訳に取り組んでおり、ハワイでの出版を目指している。

(かわさき・ひろし=ハワイ移民資料館 仁保島村館長)