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ディープテックが地球を救う 上級論説委員 西條都夫

フランスの経済学者、フィリップ・アギヨン教授は近著『創造的破壊の力』で、1820年前後に始まった「経済のテイクオフ(離陸)」について書いている。人類は長い経済停滞を経て、今から2世紀前にまず英国で、それから大陸欧州や米国、次いで日本を含むアジアでも前例のない高成長を遂げ始めた。

結果は日々の暮らしが豊かになっただけではない。「19世紀までは珍しくもなかった平時における餓死や凍死は、先進国ではほぼ姿を消した」と教授はいう。以前は1歳の誕生日を迎える前に赤ん坊の25~50%が死亡したが、今の日本の乳児死亡率は0.2%以下だ。1人あたりの国内総生産が伸びるほどその国の幸福の水準が上がるという国際比較の研究もある。

教授によると、離陸の要因は2つ。しきい値を超えた科学技術のめざましい発展と、それをビジネス展開しようとする起業家や発明家の権利を国家の恣意的な介入から守り、新たな起業やイノベーションを促す諸制度の確立だ。これが両輪となって「テイクオフの奇跡」が実現した。

 

 

 

現在の日本は飢餓の恐怖からは解放されたが、今は今なりの全人類的な脅威が眼前にある。その代表が新型コロナウイルスなどの健康リスクであり、もう一つは環境をはじめとした、国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」が掲げる種々の課題だ。

21世紀の私たちは新たな恐怖を克服できるだろうか。むろん容易ではないが、悲観するだけが能ではない。英語でいう「cautious optimism(慎重な楽観主義)」の構えが肝要だろう。あえて楽観と言うのは、アギヨン教授の指摘するテイクオフの2条件が今も世界の底流に根付いているからだ。

例えば新型コロナでは2010年創業のスタートアップが活躍した。メッセンジャーRNA技術を駆使してコロナワクチンを高速開発した米モデルナ社である。同社はがんの制圧にも挑戦し、ステファン・バンセル最高経営責任者(CEO)は「開発中のがんワクチンは再発や死亡リスクを4割低下させる良好な治験結果が出た」と宣言する。

頼もしいのはイノベーションを担う主体の裾野が急速に広がっていることだ。宇宙開発や創薬など高度な専門知と巨額の資金を要するディープテックの領域は、国の研究所や巨大資本の専有物というのが以前の常識だった。だが今では新規参入のハードルが大きく下がった。年若いモデルナが世界有数のメガファーマ(巨大製薬会社)の米ファイザーとワクチン開発で互角に競い合う現状がその証左だ。

スタートアップ台頭の要因は、近年桁違いに拡大したベンチャー向けファイナンスの充実や、流動性を増した労働市場など様々あるが、見逃せないのは政府機関や大企業の側の姿勢の変化だ。

宇宙開発を例にとると、この分野で長らく世界をリードした米航空宇宙局(NASA)は2000年代初めに自身の役割を再定義し、「自ら研究開発する組織」から「民に投資してイノベーションを促す組織」に幅を広げた。

ある時期以降のNASAは「失敗は許されない」という硬直した文化が根を張り、イノベーションの生産性が低下。そこで新興企業向けの資金供給プログラムをスタートさせ、そこから誕生したのがイーロン・マスク氏率いる米スペースX社と、機体の一部を回収して、再利用するという常識破りの同社の新ロケット「ファルコン9」だ。

こうしたメガサイエンスベンチャーの波は日本にも押し寄せている。

 

 

 

東京のど真ん中の日本橋に工房を構えるアクセルスペースは、中村友哉CEO(43)が東大大学院生だった03年に打ち上げに成功した手作りの超小型衛星が原点だ。現在は洗濯機サイズの衛星5基を運用し、地球上をくまなく観察。「大雨や噴火による被災状況や、森林ごとのカーボン収支を把握でき、応用範囲が広い。だれもが手軽にアクセスできる衛星データの民主化を進めたい」という。

京大発のスタートアップ、京都フュージョニアリングが挑むのは、「夢のエネルギー」とされる核融合技術。英国原子力公社にジャイロトロンというプラズマの加熱装置を納めるほか、融合炉全体の設計もサポートする。「核融合の技術的な成熟度は高まっており、プラントエンジニアリングなど民間が蓄積したノウハウがモノをいう場面も増えている」と長尾昂社長(40)は手応えを語る。

プリント基板の革命をもたらそうとしているのはエレファンテック。従来の電子回路は基板全面に銅箔を貼って不要な部分を溶かす「引き算」方式で生成した。対して同社は「足し算」型で必要な部分だけにインクジェットで金属ナノ粒子を印刷する。

「これで銅資源の無駄遣いなど環境負荷が大幅に減る」と清水信哉社長(34)。環境にきわめて敏感な世界的IT企業も関心を示しているといい、大化けも期待される。

ベンチャー投資の世界的な冷え込みが指摘されるが、過去15年で20倍近くに急増したことを考えれば、今も高水準であることに変わりない。日本でも100億円を超える大型調達が相次ぐ。ウクライナ侵攻など心塞ぐニュースが多い中で、科学技術の発展と起業家を支援する環境の充実という「テイクオフの2本柱」がなお健在、というのは何とも心強い材料である。