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株、来るか「岸田サイクル」 春闘後の業績が試金石に

2023年、日本株市場で新たな株高サイクルが待望されている。起点となるのは岸田文雄政権が注力する持続的な賃金上昇の実現だ。海外投資家の一部は春季労使交渉(春闘)に関心を強め、デフレ脱却に期待を寄せる。ただし日本企業がインフレ環境で利益成長を続けるハードルは高い。本丸である労働市場改革で大胆な施策を打てるかがカギを握る。

 

半導体製造装置ディスコの投資家向け広報(IR)担当者は年始から忙しい。国内外から面談の要請が絶えないからだ。時価総額は1兆円を超え、競合の東京精密を突き放す。株主にはオランダの公的年金などESG(環境・社会・企業統治)重視の有力投資家が名を連ねる。賃上げしながらも、売上高総利益率を過去10年で10ポイント増の60%まで改善させ、評価を高めた。

22年8月には大幅賃上げで話題をさらった。ベースアップ(ベア)を含む賃上げ率は8.5%に達する。22年3月期の有価証券報告書によるとディスコの平均年収は1140万円(平均年齢37.7歳)。ソニーグループの1084万円(同42.6歳)を上回る。厚待遇をさらに引き上げ、「人への投資」を進めた。

投資家からコスト増懸念は出ていない。ディスコは従業員のやる気を引き出すことが株主利益の拡大に寄与すると過去の利益率改善で示してきたからだ。「採用強化につながる」といった声が多かったという。

同社では従業員が製品サービスの付加価値向上策を競い合う。提案の優劣に応じて仮想の社内通貨を獲得し、獲得額が実際の賞与に反映される。社内通貨で業績への貢献を「見える化」することで生産性を向上させる取り組みだ。

岸田首相は経済界に「インフレ率を超える賃上げ」を求め、一部企業は要請に応えている。賃上げが定着すれば国民は消費を増やす。海外投資家の関心も高い。ゴールドマン・サックス証券のチーフ日本株ストラテジスト、ブルース・カーク氏は「デフレ経済から需要けん引型経済への転換に向けて政策措置が出てくれば日本株の再評価につながる」と指摘する。

大幅賃上げが産業界全体に広がり、国内消費を喚起することで企業の売り上げも増える――。この好循環を実現すれば日本株全体の押し上げにつながる。ただ個別企業でみると、短期的には利益率低下を招く。株主から評価される賃上げのハードルは高い。

JPモルガン証券の西原里江チーフ株式ストラテジストは、インフレ経済への転換が企業業績に与える影響を試算した。売上原価が2%、人件費は3%上がると想定し、価格転嫁率を過去の資源高局面と同じ約5割に設定すると、全産業の営業利益率は1ポイント近く落ち込む。建設業や運輸業の悪化幅が大きかった。

日本の価格転嫁率は米国(8割)に比べて低い。人件費・原価上昇分の半分しか価格に上乗せできず、利益率を押し下げる。多くの市場で多数の競合がひしめき、値上げしにくいからだ。低い売上高総利益率もコスト吸収力を弱めている。米S&P500種株価指数組み入れ銘柄の同利益率が30%に対し、東証株価指数(TOPIX)構成企業は25%にとどまる。

利益率低下は株価下落につながり、経営陣への圧力となる。日本企業が再び総人件費の抑制に走れば、脱デフレは失敗に終わる。企業は価格転嫁率の引き上げを進め、足りない分は売上原価の低減で補う必要がある。カギは労働生産性の向上だ。JPモルガンの西原氏は「政府は雇用の流動化を促し流れを変える必要がある」と主張する。

「労働移動を円滑化していく」。22年9月、岸田首相はニューヨーク証券取引所で訴えた。ある出席者は「人への投資」について語る文脈で、真っ先に労働市場改革を取り上げたことが印象に残ったという。海外でも関心が高いテーマだけに、現政権の本気度を感じ取ったようだ。

岸田首相は6月までに労働移動円滑化の指針を策定すると表明している。従業員の新陳代謝が進めば、労働生産性は上がる。企業も従業員への投資を増やしやすくなる。労働市場改革は脱デフレ対策の「本丸」。海外投資家は解雇規制緩和など抜本的な改革が含まれるかどうかを注視する。

1990年以降の日本株市場には4つの大きなサイクルがある。その初期に共通するのは時の首相が危機対応で大胆な政策を打ち出し、海外勢が日本株を買い増す構図だ。03年開始の「小泉サイクル」では小泉純一郎政権の銀行危機対応と構造改革路線に期待が集まった。

日銀は22年12月、事実上の政策変更に踏み切り、「アベノミクス」は名実ともに終わりを迎えようとしている。日銀の大規模金融緩和は為替の円安をもたらし、企業収益は拡大した。ところが企業は株主還元を増やし、手元資金を積み上げるだけで、人件費を抑え続けた。賃金上昇期待がなければ、国内消費は増えない。海外マネーも縮小均衡の国を敬遠するようになった。

企業経営者の危機感は強い。大和証券グループ本社の日比野隆司会長は「日本経済を成長軌道に乗せるラストチャンス」と話す。日本企業が賃上げによる高スキル人材の獲得・育成で競い合い、企業価値を向上させる。政府は労働市場改革で企業の競争を後押しする。インフレ経済定着の道筋が見えてくれば、海外マネー主導の「岸田サイクル」が始まる可能性がある。

(宮本岳則)