2017年以来、すでに10人ほどの経済産業省や総務省などの若手官僚が、デザインの発想を政策に生かす手法を学ぶために海外留学しているという。こうした動きは、従来の業界からの意見集約といった政策立案プロセスの限界を浮き彫りにする一方で、新たな可能性の兆しともいえる。
かつて行政官のキャリア官僚の国費による海外留学といえば、公共政策学や経済学、経営学修士(MBA)などがメジャーだった。例えば、皇后雅子さまが外務省に勤務していたときに留学したのは英オックスフォード大学で、国際関係論を専攻した。岸田文雄首相の側近、木原誠二官房副長官は大蔵省(現財務省)時代に、英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)およびロンドン大学高等法律研究院で学んでいる。
経済産業省の橋本直樹氏(現在はデジタル庁勤務)は、キャリア官僚として初めて美術学修士(MFA=Master of Fine Arts)を取得した「ファーストペンギン」だ。入省7年後の2017年に、パーソンズ美術大学のデザイン専攻の修士課程に進んだ。100年以上の歴史がある同大学は、英クアクアレリ・シモンズ社(QS)の最新の世界大学ランキング調査のアート・デザイン部門で3位(全米1位)で、マーク・ジェイコブスやアナ・スイなど、有名ファッションデザイナーやアーティストを輩出してきたことで知られる。
留学する3年前にクールジャパン政策に関わった際に、「デザイナーがユーザーを調べて要望を導き出し新商品を作る」プロセスを目の当たりにした。
「利用者の声に耳を傾け、課題を発見しアイデアを考え、試行錯誤を繰り返しながら解決策を探り、製品やサービスとして社会実装する」という「デザイナーがデザインする際の過程」、いわゆる「デザイン思考」を産業政策に生かせるのではないか。そうピンときた。しかし、新しい手法だけに省内外でなかなか伝わらない。「それなら、自分が究めよう」と、デザイン思考の研究が進んでいる海外留学を決意した。
課題抱える一人ひとりと向き合う
留学先の講義では、課題を抱える一人ひとりと向き合い、社会課題にアプローチする研究や活動の醍醐味を知った。実習授業では、治療しても完治する見込みのない末期がん患者に医師が寄り添っていないという課題の解決をデザイン思考で試みた。ロールプレーを通じて言葉遣いを何度も録音、分析した上で、最終的には、医学部生向けにコミュニケーション手法を学ぶキットを作成した。
19年に帰国し、特許庁での勤務を希望した。折しも同庁と経産省の研究会が前年に、デザイン形成のプロセスを事業戦略に活用することを推奨する「デザイン経営宣言」を発表し、デザインと行政との距離感が近くなっていた。
橋本氏が主体となって21年11月にスタートした「I-OPEN(アイ・オープン)」プロジェクトは、米国で学んだ成果といえる。貧困問題や環境問題といった社会課題を知的財産を使って解決することをサポートする仕組みだ。「社会課題解決の重要な担い手となる、NPO(非営利団体)やスタートアップ、個人などにとって、知的財産は縁遠い存在だ」という課題を設定し、その解決のために、米国で習得したデザイン思考の手法を導入してプロジェクトを構築した。
特許ユーザーへのインタビューやワークショップを行った結果、特許庁や特許制度に興味を持ったとしても、制度がわかりにくく、専門家が身近にいないことが問題だとわかった。そこで社会課題の解決に取り組んでいながら知財の活用ができていない人々に対して、知財の専門家である弁理士のほか、社会課題解決のプロであるデザイナーや社会起業家、投資家らがサポーターとなって支援する取り組みを考えた。

プロジェクト名のI-OPENは、「知的財産(Intellectual Property)とイノベーション(Innovation)を自分自身(I)が開いていく」という意味を込めた「I」に、特許を示すpatentの語源がopenを指すラテン語であることや、「目から鱗(うろこ)が落ちる」ことをeye-openingと表現することから付けたという。
「グッドデザイン賞」の大賞にも
初年度は、支援対象者として10人程度を募集したところ、定員の3倍以上の応募があった。採択された支援対象の1つ、奈良県で駄菓子屋を展開し、地域の子どもたちの貧困や孤独を解消するための活動を展開する「まほうのだがしやチロル堂」は、すぐれたデザインや活動に対して贈られる「グッドデザイン賞」の22年度の大賞に選ばれた。橋本氏は、デザイン思考を行政に取り入れることに手応えを覚えた。「これまでは、業界団体から意見を吸い上げたり、経済指標をもとにしたりして政策を立案してきた。しかし価値観が多様化したいま、従来のプロセスではこぼれてしまう声も多い。個々人の声を拾い上げて立てた政策が、結果的にはマスにも有効になる時代だ」(橋本氏)。いわば、身障者が使いやすいようにデザインされた商品やサービスが、健常者にも有用であるケースが多々あるというイメージだ。
従来の政策立案に限界を覚え、新たな政策形成としてデザインの手法を広めたいと考えた橋本氏は、仕事の枠を超え19年に有志と一般社団法人「スタジオポリシーデザイン(SPD)」を立ち上げ、省内や地方自治体で研修「ポリシーデザインスクール」を開催している。
「経産省版デザインスクール」と位置づける同研修は、政府の行政改革推進会議のワーキンググループが22年5月にまとめた提言の中で、行革の取り組みの代表例として取り上げられるなど、橋本氏らの活動の認知が徐々に広がり、同志も増えている。
SPDメンバーで18年に橋本さんと同じパーソンズ美術大学に留学した経産省の羽端(はばた)大氏は、出向中の25年国際博覧会(大阪・関西万博)の運営主体で22年7月に、デザインプロセスを生かした企画「Co-Design Challenge」をスタートさせた。企業や団体の規模の大小に関わらず、それぞれが持つ課題を解決するかたちで会場内での物品やサービスの一部を実装させる取り組みだ。
会場内に設置する「ベンチ」を例にとると、いまの日本では「国産の木材の利用が限定的」であることが課題だと認識した業者が、林業産地と一緒になってベンチを作り、万博に提供することで課題が解決され、結果的に「持続可能な森林のエコシステムの実現」につながると考えた上でベンチを開発する。「そんな発想で協賛してほしい」(羽端氏)。
狙いは、問題意識を持っている人とともに、万博後の日本のまちづくりを見据えて官民が共創することだという。こうした橋本氏らの動きと呼応するように、経産省の海老原史明氏(07年入省)を中心に集まった官僚らが、デザイン手法を政策に生かすべく多摩美術大学の田中美帆非常勤講師や学生と組み「共創デザインラボ」として20年度から活動している。

「寄り添うやさしい」ミッション
22年3月には、橋本氏らと「共創デザインラボ」が核となり、総務省や財務省など省庁を横断した官僚26人が「JAPAN+D(ジャパンプラスD)」を結成した。ミッションに「日本の行政にデザインアプローチを取り入れ、人に寄り添うやさしい政策を実現します」と掲げた。デザインの役割を「人の気持ちを考え、共感し、寄り添うこと。そして、人々が心の奥底で抱える問題を解決し、豊かさや幸せを生み出すこと」と定義し、現在、デザインプロセスで政策立案するための動画教材を作成中だ。「中央官庁だけでなく、関心のある全国の地方公務員にもアプローチできる」(橋本氏)ことを期待する。
課題解決におけるデザインプロセスの重要性は、すでに海外では認知されている。ジャパンプラスDの調べによると、デンマークでは、日本の経産省にあたる機関が50%の資本を保有するかたちで1978年に非営利組織「デンマーク・デザイン・センター」を設立し、国内の企業や行政がデザインを通して新しい価値を生み出せるよう支援している。また、米ニューヨーク市は、市長直下の組織にデザインスタジオを設け、デザイナーを雇用し貧困問題の解決に取り組んだという事例もある。
米ハーバード・ビジネス・レビューが2008年に「The MFA Is the New MBA」と題して、MBAよりもMFAの重要性が高まっていると報じた。その8年後には英フィナンシャル・タイムズが、伝統的なビジネススクールのMBAコースへの出願数が減少傾向にある一方で、美術大学が新設したデザイン思考を取り入れたMBAコースが人気だとする記事を掲載し話題になるなど、ビジネス界ではデザイン思考を取り入れる機運は醸成しつつある。
日本の政策立案の現場では、新たな手法としてデザイン思考を活用した具体的な成果がまだ多いとはいえない。改革を試みる若手官僚のエネルギーは、少子高齢化や生産性の低さ、上がらない賃金など山積する課題を解決するための切り札として主流に導くことになるだろう。
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