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慶応・青学・女子学院…あの名門校は築地生まれ 動画で「東京ふしぎ探検隊」

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東京・築地を散策すると、「〇〇発祥の地」という記念碑がやたらと目につく。中でも多いのが学校だ。慶応義塾、青山学院、立教学院、明治学院、女子学院、暁星学園、雙葉(ふたば)学園……。名門校の名がずらりと並ぶ。日本初のサンタクロースもこれら名門校と関わりがあるらしい。なぜこれほど発祥の地が多いのか。その理由を探った。

築地に外国人居留地があった

学校発祥の地の記念碑は、特定のエリアに集中している。聖路加国際病院や聖路加タワーがある一帯だ。50メートルほどの間に3つが並ぶ場所もあった。ここに何があったのか。築地の歴史に詳しい中央区教育委員会の学芸員、増山一成さんに聞いた。

「青山学院記念の地」(左)と「明治学院発祥の地」(右)の記念碑

「築地にはかつて、外国人居留地があったんです。居留地というと横浜や神戸が思い浮かぶと思いますが、江戸時代末期に外国との間で結んだ条約に基づき、1868年(明治元年)に東京にも築地に居留地ができたんです」

1858年(安政5年)の日米修好通商条約は教科書などでよく知られている。その後、オランダ・ロシア・英国・フランスとの間でも、同様の修好通商条約を結んだ。これを「安政の5カ国条約」と呼ぶ。条約により、函館、横浜、長崎、新潟、神戸を「開港」、江戸と大阪を「開市」し、外国人の居住を認めた(大阪は後に開港)。

このとき、江戸で居留地に指定されたのが築地だったというわけだ。築地は隅田川の河口にあり、船の発着に便利ということで選ばれたといわれている(川崎晴朗著「築地外国人居留地」)。

築地では、外国人だけが暮らす居留地と、日本人に混じって住む「相対借り地域」が設定された。「相対借り地域」も含めて築地居留地と呼ばれることもある。居留地の整備は清水店(後の清水建設)2代目の清水喜助が担当した。清水喜助は1868年(慶応4年)、相対借り地域に日本初の本格的な西洋式ホテルといわれる「築地ホテル館」を建てた。現在の勝鬨(かちどき)橋のたもとだ。

築地の外国人居留地には数多くの学校があった(中央区教育委員会提供)

閑静な文教地区 ミッションスクールが次々誕生

ただ、同じ居留地といっても、築地は横浜や神戸とは性格が違った。

「横浜や神戸は港が開かれたため、貿易の拠点となり商人が住み着いて発展していきました。これに対して築地では港は開かれず、当初は領事館や公使館が多かったようです。1873年(明治6年)にキリスト教の布教禁止が解かれると、教会関係者が横浜や外国から築地にやってきて、そこで始まった子どもたちへの教育からキリスト教系の学校が生まれていったのです」(増山さん)

当時の築地は閑静な文教地区だったという。特に女子教育に熱心な学校が多く、A六番女学校(後の女子学院)、海岸女学校(同・青山学院)、立教女学校(同・立教女学院)などの名門校が次々と誕生した。

「雙葉学園発祥の地」の記念碑

居留地ができた当初はホテルや遊郭なども近くにできたが、商人の街ではなかったこともあり、経営は苦しかったようだ。新島原と呼ばれた遊郭は1871年に廃止となり、築地ホテル館は1872年の銀座大火で焼失してしまった。居留地自体も関東大震災で壊滅的打撃を受け、その面影は残っていない。

日本初のサンタクロースは殿様姿?

教会やミッションスクールが数多く生まれた築地では、クリスマス会も開かれた。そこに登場したサンタクロースが、日本で最初のサンタだったのでは、といわれている。

そもそも、日本で最初にクリスマスが祝われたのは戦国時代だった。16世紀に現在の山口県周辺を治めていた大内氏がミサを開いたといわれている。

ではサンタはというと、1874年(明治7年)に築地の教会で開かれたクリスマス会で初めて登場した、との説が有力だ。そのサンタはなんと殿様姿で、大小の刀を差しカツラをかぶっていた。このクリスマス会を主催したのが原胤昭(たねあき)氏で、A六番女学校の流れをくむ学校を引き継いだ人物だった。築地は日本のサンタ誕生の地でもあったのだ。

女子学院は築地居留地内に最初にできたミッションスクール、A六番女学校がルーツだ

慶応義塾と解体新書は中津藩から 築地に屋敷があった

ところで、築地で生まれた学校の多くはミッションスクールだが、例外がある。慶応義塾だ。聖路加国際病院の敷地の向かいにある記念碑を訪れると、「慶応義塾発祥の地」の記念碑の隣にもうひとつ、書物の形をした石碑が立っていた。解体新書を模した記念碑だ。

慶応義塾と解体新書。一見すると無関係にも思えるが、実は共通項がある。中津藩だ。

「慶応義塾発祥の地」の記念碑(左)と解体新書の記念碑(右奥)は同じ敷地内にある

現在の大分県にあった中津藩は、築地に屋敷を持っていた。1858年、福沢諭吉が藩の命で中津藩の江戸中屋敷に蘭学塾を開いた。これが慶応義塾のルーツだ。その後、1867年に現在の浜松町に移り、翌年に慶応義塾と名乗る。現在の三田に移ったのは1871年のことだ。

では解体新書はというと、杉田玄白とともに医学書の翻訳にあたった前野良沢は、中津藩の藩医だった。杉田玄白はのちに回顧録を記したが、杉田玄白の死後、明治になってから復刻した「蘭学事始」の序文は福沢諭吉が書いている。2つの記念碑が並んでいるのは必然でもある。

「慶応義塾発祥の地」の記念碑には、中津藩中屋敷で福沢諭吉が塾を開いたこと、前野良沢がオランダの解剖書を読んだことが刻まれている

ちなみに、「聖路加」は「せいるか」と読む。一般的には「せいろか」の方がなじみがあるかもしれないが、キリスト教の聖人の名前、ルカが正式だ。「女子学院発祥の地」や「慶応義塾発祥の地」の記念碑がある通りの名前も「聖ルカ通り」となっている。

築地周辺にはほかにも発祥の地が数多くある。例えば活字。築地明朝体として名前が残っている。点字や電信なども発祥の地として記念碑があった。発祥の地研究家の小川雅樹さんに生前聞いたところによると、全国に発祥の地の記念碑は約1650カ所あった。その中でも特に多いのが築地と横浜だという。

道ばたにひっそりたたずむ発祥の地の記念碑。普段は見過ごしがちな小さな石の向こうに、壮大なドラマが眠っている。(河尻定、塚本直樹、高橋丈三郎)