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湯浅誠さん 「誰も取りこぼさない共生社会」目指す 全国こども食堂支援センター・むすびえ理事長(人間発見)

こども食堂は2012年に東京都大田区の八百屋さんが始めた取り組みです。子どもが1人で来ても安心して食べて帰れるようにしたのです。そこから同じような取り組みが全国に広がり、21年には6000カ所を超えています。私は16年から関わりました。地域ににぎわいをつくりたい、そこからこぼれる子どもをなくしたいとの思いで「全国こども食堂支援センター・むすびえ」をつくり21年、認定NPO法人となりました。

こども食堂は「子どもを真ん中に置いた全世代の居場所」だと考えています。どんな家庭の子が来てもいいし、支援する大人は専門家だけでなくていい。実際に、野菜を寄付してくれる農家さんが出てきたり、紙芝居をやりたいというおじさんが出てきたり、自分も関わりたいと手を挙げる人が増えています。

社会の分断が進む中で、所得や年齢によらない様々な人が集まるこども食堂は、インクルーシブ(包括的)な社会につながるルートになると考える。その根っこには、障害を持つ兄との経験がある。

私は東京の世田谷区で生まれ、小平市などで育ちました。父親は日本経済新聞社の記者、母親は小学校の教師でした。3歳違いの兄は進行性の筋萎縮がある重度の身体障害者です。

父は記者時代、長かったのが記事を校閲する部署。裏方でした。本当は官僚になりたかったそうです。二浪しても東大に入れず早稲田大学に入りました。また国家公務員試験にいい成績で通ったのに官庁には採用されなかった。東大に落ちたからだという意識をおやじは持っていました。

私は気が付いたら勉強のできる子でした。小学校の1、2年のころは「医者になって兄ちゃんの病気を治す」と言っていました。小学校の卒業文集で書いた夢は「ジャーナリスト」。おやじの影響です。

やや暗い面としては、両親が兄にかまい、私には注意が払われていないと感じていました。よく覚えているのは小学生のころ、ギョーザが大皿で出てきたときのこと。おやじが兄ちゃんに「食べなさい」と取り分けている。

兄ちゃん的には過度にかまわれるのが嫌なんです。でもおやじは、いつも一緒に夕食を食べられるわけじゃないから、かまってやりたいのです。そのやりとりを私は隣で冷ややかに見ていた。さみしかったのかなあ、と今となっては推測します。

兄とはけんかしながらも仲のいい兄弟だった。車椅子の兄との遊びがインクルーシブ教育になっていた。

草野球の思い出があります。兄ちゃんは監督ね、と言って野球を始めると、つまらなさそうにしている。するとこっちはやっぱり気になっちゃう。「兄ちゃんは監督じゃだめだ」「じゃあどうすんだ」とみんなで考えて、兄ちゃんが打席に立ったときは投手が3歩前に出て下手で投げる、打てたら、代理が走るという決まりを作りました。

それによって兄も同じような確率で塁に出たりアウトになったりする。障害者だからと排除してはだめだし、腫れ物に触るのは別の排除になる。インクルージョン(包括・配慮)の大切さを兄から自然と学んでいたのです。

こども食堂も、いろんな人と人とが出会う交差点のような場所です。インクルーシブな社会に向けた大きな可能性を秘めています。

ニューヨークでの世界貧困者サミットで発言する湯浅さん㊨(2000年11月)=共同
勉強のできる子ども時代を過ごし、進学校である私立武蔵高校に進んだが「大学には行かない」と言い出した。

高2のときに失恋しましてね。人生初の真面目な恋愛だったんですが、「なんで俺は俺なんだろう」ということを思い始めて。いわば自我に目覚めて、哲学書や太宰治を読んで「学歴社会はおかしい」とか考え出す。武蔵の創設者は大学に行っていない人だったので、「なんだ大学に行かなくても立派な人になれるんだ、俺は行かねえ」と言い出したのが高校3年生の9月でした。今、思えば敵前逃亡みたいなのもあったのかもしれません。

そうしたらある晩、おやじが「ここに座りなさい」という。「学歴社会がおかしいことは、大昔からいろんな人が言ってきたけれど変わっていない。本当に変えたいと思ったら東大に行ってから言え。東大に行けなくて言っても誰も聞かないぞ」。それでコロッとやられました。

結局、一浪して東大法学部に合格しました。法学部は一番偏差値が高いから行っただけ。将来これになろうというものはなかったので、融通が利くかなとも思った。人に雇われる仕事には就かないという意思だけは、はっきりしていました。メインストリームに対する反発心のようなものがあったんでしょう。

それには兄が障害者だった影響があると思います。おやじは基本は保守的でした。でも、兄のことで自宅の最寄り駅にエレベーターを設置する運動などをしていて、社会党や共産党の市議に助けてもらっていた。なので、そういう人を悪く言うことはなかった。力を貸してくれるのはあの人たち、という雰囲気が家庭の中に漂っていたと思います。

兄のために自宅へ来るボランティアに自分も遊んでもらったことから、ボランティアの道に入った。

大学生になったらボランティアをする、というのはいつからとなく決めていました。恩返ししたかったんです。何をしていいかわからなかったのでボランティアセンターに行き、児童養護施設を紹介されて学習支援を始めました。

週1回、中学生らに2、3時間教えるのですが、自分の名前を書くのが精いっぱいの子どもがごろごろいて、全然学力が上がらない。普通高校に合格した子が5年ぶりに出たといった具合です。施設の職員が教える役をやった方がいいと思いましたが、職員は生活指導などで忙しくてそれどころじゃない。

我々が勉強を教えて子どもの将来を切り開くなんて全然できないじゃん、東京都に職員を増やすよう要望しよう、と提案しました。でもボランティアの中で浮きましたね、完全に。それでそのボランティアは2年で終わりました。

ボランティア活動などにのめり込み、大学へは年に1回行く程度だった。

3年生のとき、たまたま唯一出た授業が期末試験の登録最終日で、なんとか試験だけ受けたということもありました。ラッキーです。それがなければ単位ゼロでしたね。ただ、大学院はそうした態度では無理でした。東大の大学院は「優」が3分の1以上ないと受からない。私の場合は「優」と「可」の相殺で、むしろマイナスでした。

当時、文系で大学院に行くというのは研究者になるということです。大学5年生の春、教授に大学院進学の相談にいくとこう言われました。「あなたね、大学教授になろうという人が大学の授業で優も取れないというのは話になりません」。よく覚えています。そこからは勉強しました。

東大の法学部は90単位くらい取れば卒業できるのですが、すでに取得した60単位では優が足りなかったので、結局120単位まで取って、優を3分の1までもっていきました。学部には6年生までいて、院試を受けたのは95年9月。入学は96年の4月です。半年時間が空いたな、なんかやるか、と始めたのがホームレス支援でした。

国会へ向けデモ行進の先頭に立つ「年越し派遣村」村長の湯浅さん㊥(2009年1月、東京・日比谷公園)=共同
ホームレス支援をしていた友人の活動に参加し、1995年から東京・渋谷の路上で支援を始める。ホームレスが急増していた時期だった。

渋谷は東大に近いので、それまでもよく飲んでいましたが、そこにホームレスがいるなんて思ったことはありませんでした。夜回りしてみると、いっぱいいる。視界に入っていたはずなのに。人間って見たいものしか見ないんだなと、強く感じました。それが一番ショックだった。

街にはホームレスを収容できる上限があります。オープンスペースに上限があるというのは変な感じがすると思いますが、人と人はきびすを接しては眠れない。間隔をとって寝ますよね。安全に寝られる場所や手に入る食料が限られているので、渋谷の上限はだいたい600人でした。

上限を超えると、新しい人が1人来ると誰かがどこかで追い出されるようになる。95年に私が路上へ通い始めたとき、渋谷のホームレスは100人でしたが、2000年には600人になりました。それ以上は増えようがない。当時、大都市はどこも飽和状態でした。新宿は1300人、京都は550人、神戸は600人といった具合です。

これは大変な状態だ。社会の底が抜けちゃってる。まるで、ところてんだと思いました。大企業の人が突然ホームレスになるわけではないけれど、山一証券の破綻とかがあってトップの人が中小企業に行き、その会社の人がもっと小さい会社に行き、小さい会社の人が日雇いになり、そこからまたぎゅっと追い出される人がいたのです。

01年には困窮者の相談に乗る自立生活サポートセンター「もやい」を設立する。自ら多くの人の連帯保証人になった。

路上はある意味、困っている人を捕捉できる場所ですが、路上に来ない人は助けられない。これだけ蛇口全開で人がこぼれ落ちてくるのに、路上でやっていては、らちがあかないなと思いました。もっと手前で止めないと、蛇口を閉めないと。それで始めたのが「もやい」でした。

実利がないと誰も相談に来ないので、考えたのが連帯保証人の提供でした。当時は今のような債務保証会社がなかったので、親や友人が保証人になってくれないとアウトでした。それで家を借りられず困っている人が多かった。

もやいは当初は任意団体でしたので不動産会社は信用しない。それで湯浅誠の個人名で保証人になりました。お金も何も持っていないので、自己破産しても失う物はないですから。だから怖くなかった。あっという間に半年待ちくらいの状態になりました。私は300人以上の保証人になりました。

母は心配していました。「あんた最近ホームレスにかぶれているみたいだけど……」と言われたこともあります。おやじは私の活動をよく知らないまま01年に亡くなりました。おやじの法事で、親戚の間では「誠ちゃんの話は触れない」となっていました。妙に勉強ができるとあんな風になっちゃうんだね、と言われていたと思います。

08年9月にリーマン・ショックが起きた。その年末に、職を失った派遣労働者らに居場所をつくる「年越し派遣村」を労働組合の人たちと設置した。派遣村村長を務め、一躍有名人になった。

日比谷公園に設置した派遣村は、5日間で500人超が村民登録しました。150人の想定でしたが初日で満杯に。テントは足りず、このままでは凍死者が出かねないと厚生労働省にロビーの開放を要求したところ、講堂を開けてくれました。そのときは、ほっとしました。

もやいも相談の電話が一日中鳴りっぱなし。朝、事務所が開く前に30人位が列をなしているような状態でした。そうして忙しく過ごしていましたが、09年に民主党への政権交代が起きると、私のところに1本の電話が入りました。菅直人さんからでした。

民主党政権で参与となり、委員会に出席する湯浅さん㊧(2010年7月、首相官邸)
年越し派遣村の少し前に遡る。大学院の博士課程では戦前の思想家を研究していたが、博士論文を書けずに2003年に退学した。生活費になっていた奨学金がなくなったので、便利屋「あうん」を始めた。

今では遺品整理屋さんと言われるようなことをやっていました。遺品を引き取るタイミングが悪いと廃棄できず、自分の狭い部屋に冷蔵庫5台、洗濯機8台がひしめくこともありました。遺品があった部屋の大家さんから「畳がぐずぐずだからフローリングにしたい」と頼まれることがあり、小さなリフォームを手掛けるようになりました。

路上生活をしていた器用な職人さんがいて、私はその人に「おい」と言われたら道具を渡したり、「これやっとけ」と言われたら簡単な処理をしたりする「手元」という仕事などをしていました。月に15万円ほどは稼げるようになって、問題なく暮らせていました。将来への不安は、一切ありませんでした。

06年ごろから貧困をテーマにした論文を発表、08年には著作「反貧困」が大佛次郎論壇賞を受賞するなど注目を浴び始める。

そのころ「大問題としての貧困はこの国にはない」と発言した大臣がいました。私は大学と縁が切れ、便利屋をやり、もやいで困窮者の電話相談に乗り、1年365日貧困の中にいました。貧困はないと言うのは、そういう人はいませんと言われたような、みんなが消されたような感じがしました。あなたたちから見えなくても、ここにいるよ、見せてやるよという気持ちで論文を書き始めました。

08年の年越し派遣村を経て、09年9月に民主党政権が発足すると、1本の電話がかかってきました。当時、副総理だった菅直人さんからです。訪ねてみると内閣府参与にならないかという打診でした。まあ迷いました。1回では決まらなかった。周りも賛成と反対にきれいに分かれました。中央に行って力を発揮すべきだと言う人がいれば、取り込まれるから行くべきじゃないという人もいました。

結局こちらから条件を出して、とにかく09年の年末は、年を越せない人が路上にあふれた08年末のような事態を起こさないために参与になる、業務が終わったら辞めるとの文書を用意しました。菅さんは「なんか半身だなあ」という感想を漏らしていました。

条件通り09年10月に任命を受け、年末年始の支援をして10年3月には辞任。鳩山由紀夫首相から同年5月に再任用される。そこから12年3月まで約2年、格差や貧困問題の改善のため参与として働いた。

だんだんわかってきたことがありました。やりたいことができないのは、必ずしも官僚らのやる気がないからではないんだという点です。例えばホームレス支援では、年末にビジネスホテルを借り上げようと提案しました。初めに書いたレジュメでは全国で一万部屋確保みたいなことを示したんです。政令市は何部屋、東京都は何部屋、と掲げたのですが、官僚には無理です無理ですと言われて抵抗されました。

「じゃあ俺が直接説得するから」と、自治体に出向き始めるわけですが、まあひどいことになりました。首長さんから「お前責任とれんのか」と怒鳴られたり罵られたり……。そういうことが何度もあって、官僚が言っていた無理というのはこういうことなのね、想定通りの壁でつまずいているんだとわかりました。

井の中の蛙(かわず)だったというか、てんぐになっていたんだと思います。派遣村村長から内閣府参与になって、格差や貧困問題の改善のため、したいことができるんじゃないかという思いがあった。でも、やれない。ほとんどの人はそんなこと合意していない。そう気が付きました。

ある人からは「着たことのない服に袖を通すように」と助言されました。自分と異なる価値観に自分をくぐらせなさいということです。実行を始めます。

「配慮ある多様性」を伝えていきたいという
内閣府参与を2012年に辞めた後は、大学で学生に教え、企業の人たちとの付き合いも始めた。

もやいにしても、あうんにしても私たちの活動は2、3人で始めているので、例えば100万人が「そうだそうだ」と賛同してくれるとしたらすごいことです。だけどそれは人口の1%にすぎない。あとの99%が反対していたら政策は作れない。そう知ったのが内閣府参与の経験でした。

辞任後は自分の幅を広げるため、異文化・異業種交流に力を入れました。14年から法政大学の教授を引き受けました。「普通の学生さん」たちと話したかったのです。私たちがやっているような活動に自主的に参加するいわば「意識高い系」ではない学生が何を考えているのか知りたかった。最初から文化人類学者のフィールドワークみたいな気持ちです。学生からは質問大王と言われていました。

日本IBMが主催する「富士会議」に出るようになったのもそのころからです。産業界や官僚など日本の中堅リーダーが集まる場所ですが、そこでも大企業の部長ら、付き合ったことがないタイプの人と関わるようにしました。最初はおっかなびっくりでしたが、付き合ってみるとそんなに人って変わらないなあ、と思いました。

ある人と東京の青山で3000円のランチを食べながら「周りを見てごらん」と言われたことがあります。「この人たちに理解してもらいたいんだったら、その人たちに責められていると感じさせちゃいけないよね。そうじゃなきゃ、1人は賛同しても他の9人は逃げていくよ」と。私はムスーっとしながら何も言い返せない。そんな経験を重ねていきました。

16年にヤフーニュースでコラムの連載を開始。そのころ、こども食堂と関わるようになる。

自分の視野を広げようと努力して3年くらいたったころでした。いろんな人に届く言葉を身に付けられたのか、そろろと力試ししたいと思っていたところ、ヤフーでの連載の話をいただきました。そこで最初のテーマに選んだのは「1ミリでも進める子どもの貧困対策」でした。いろいろな人と交わる中で、子どもの貧困というのは、社会的立場を超えて共感できる話題だと感じていました。

東京都豊島区でこども食堂を開いていた栗林知絵子さんから、裾野を広げるために全国ツアーをしたいと相談を受けました。栗林さんは派遣村時代からの知り合いです。私は「反貧困」をテーマに2度全国ツアーをやった経験があったので「じゃあやろう」となりました。代表は栗林さん、私は実行委員です。その後のこども食堂は爆発的に広がりをみせています。

これからの時代はインクルーシブ・ダイバーシティー(配慮ある多様性)が必要になると考える。

平成の30年間で、ダイバーシティー(多様性)は相当浸透しました。女性のみならず、LGBTの人なども尊重されるようになりました。その一方で、多様性を尊重する面倒くささに人が耐えきれず、共同体を作りにくくなってもいます。「みんな違うね」だから「付き合うのは面倒だね」ということになる。結果としてSNSでは気の合う人だけが集まり、分断が生じやすくなっています。

乗り越えるため必要なのはインクルージョン(包括・配慮)ではないでしょうか。相手の境遇や、そこからの世界の見え方に関心を寄せ、それと自分を結びつけるのです。

こども食堂の活動の中で、そこに通う高校生からこう言われたことがあります。「歩くのがゆっくりな人とは、自分もゆっくり歩くじゃないですか」と。これが配慮です。共生社会の実現というと構えてしまいますが、これなら自分もできるという気がしてきませんか。私たちの社会をそこから建て直したい。こども食堂を通じて、そんなことを伝えていきたいと思っています。

(福山絵里子)