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米実質賃金上がらぬ理由 グローバル・ビジネス・コラムニスト ラナ・フォルーハー

米国の経済政策立案者や経済界のリーダーたちは今、賃金の上昇に深い懸念を抱いている。だが平均的な労働者はそうは思っていない。なぜか。

それは、賃金から生活費の目安となる物価のインフレ分を差し引いて、実際どれだけの物品を購入できるかを示す実質賃金ベースでみると、2022年1~6月期の世界の月額実質平均賃金は、前年同期比マイナス0.9%と減少したからだ。国際労働機関(ILO)が11月30日に発表した「世界賃金報告」で明らかになった。これによると22年の世界の実質賃金は08年以降、初めて前年を下回る見通しだ。

食品やエネルギーなどの価格の高騰は、どの国・地域でも貧困層が最も打撃を受ける。だが今回、名目賃金に対して実質賃金がどれだけ低いかとなると、先進国が最も低かった。先進20カ国・地域の実質賃金は前年同期比マイナス2.2%だったが、新興20カ国・地域は0.8%増とプラスを維持した。

イラスト Matt Kenyon/Financial Times

先進国の中でも実質賃金が最も打撃を受けているのが北米だ。米国とカナダは前年同期比マイナス3.2%だった。政策立案者らは賃金が上がると物価がますます上昇するスパイラルに陥ると警戒しているが、北米の労働者の感覚と全く重ならないのはこういう理由によるわけで無理もない。

米連邦準備理事会(FRB)のパウエル議長は11月30日に米ブルッキングス研究所で講演した際、生活費の高騰によって平均賃金が食い潰される比率が拡大していることを認識していると語った。だが一方で、米国の求職者1人に対する求人倍率は1.7倍と依然として非常に高いとも指摘した。

パウエル氏は、新型コロナウイルス禍によるサプライチェーン(供給網)の混乱はおおむね落ち着き、エネルギー市場も安定しつつあるが「賃金の上昇が今後のインフレにまつわる問題の先行きを左右する極めて重要な要素になるだろう」とも指摘。「雇用の需給関係に深刻な不均衡が生じている」ために、賃金の上昇率がFRBの目標としている物価上昇率2%を大きく上回っていることからFRBとしては依然として手を緩めるわけにはいかないとした。

なぜ、こんな事態に至っているのか。

新型コロナは当然、甚大な影響をもたらした。米国の労働参加率は21年に劇的に落ち込み、いまだ回復していない。依然として多くの人が体調がまだよくなかったり、面倒をみなければならない人を抱えていたりするためだ。しかし、人手不足に陥っているより大きな要因は引退する人の増加にある。

現在、米国の人手不足の規模350万人の半分以上は引退する人が急増していることに起因する。コロナ禍で失職した年配の労働者は、労働市場が逼迫していても再び職を見つけられずにいる。一方、近年の住宅価格や株価の高騰による資産効果で早期引退を決める人もいる。

FRBのブレイナード副議長は、こうした問題に加え、米国の脱グローバル化や人口の高齢化、気候変動がもたらす様々な混乱といった近年の傾向が労働市場の弾力性の低下をもたらし、それが不安定なインフレを招く一因にもなっている可能性を指摘した。

米労働市場逼迫の根本的な原因が何であろうと、賃金の伸びがほかのインフレに追いついていない現状は、政策立案者や経済界のリーダーらに大きな問題を突きつけている。

企業はインフレが収まらないため、消費者が負担する価格を引き上げる一方、価格を据え置いたまま商品の量を減らしたり、ホテルやレストラン、空港などでのサービスの質を落としたりする「シュリンクフレーション(収縮を意味するシュリンクとインフレを合わせた造語)」もやっている。

また、企業はインフレによる賃金上昇圧力を和らげようと、通常より積極的に技術投資を進めている。一部は人間の仕事を技術に代替させるのが狙いだ。

しかし、個人消費が国内総生産(GDP)の約3分の2も占める米国など、大半の先進国では労働者の実質賃金が上がらなければ企業も経済も力強く成長し続けることはできない。

過去においては労働者が実現した生産性の向上は賃上げの正当な根拠とされた。ILOによると、22年の労働生産性の上昇率は実質賃金の上昇率を上回り、その差は1999年以降で最大になった。人々は以前より懸命に働き、より生産的に働くようになったということだ。にもかかわらず以前に比べ、そうした努力は金銭的に報われなくなっている。

生産性の伸びと賃金上昇率の格差を考えると、企業(特に今も平均以上の利益率を謳歌している企業)には労働分配率を引き上げる余地があるはずだ。

企業による職業訓練や労働者支援を目的とした生産性を上げるための設備投資などを奨励する補助金の提供など、様々な戦略が登場するよう筆者は望む。

また、米国は欧州から手法を学ぶ手もある。欧州は米国よりエネルギー価格高騰の影響を大きく受けているが、各国政府が雇用維持制度や賃金助成制度を設けることで、エネルギー価格の高騰分を除外した実質賃金レベルでも米国より高い水準を維持してきた。

米国は数十年におよぶ金融緩和政策が主な原因となって生じた別のインフレ、すなわち資産価格の高騰という問題にも頭を悩ませている。今や米国の住宅ローンの金利は20年ぶりに7%に達し、今後も上昇が続く見込みだ。

だが、この利率さえ住宅価格高騰の真の影響を十分には表してはいない。不動産物件情報を提供する米リアルター・ドット・コムによると、最近の急速な利上げと住宅価格高騰が相まって、米国の10月の住宅ローン平均返済額は前年同月に比べ77%も上昇した。

これは重要な真実を物語っている。モノとサービスの価格が上昇し始めたのはこの2~3年だ。だが米国では過去数十年、資産価格を含め他の分野でもインフレが続いてきた。

一方で、今の労働市場は生産性の向上にも物価高騰にも対応できていないという意味で破綻している。FRBは金融緩和政策によってあらゆるもののバブルを招いてきたが、この労働市場を正す手段は持ち合わせていないというのは痛烈な皮肉としか言いようがない。