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GoogleやAppleで研究 テクノロジーで暮らし変える パナソニックホールディングス執行役員 松岡陽子さん(人間発見)

ロボット工学の研究者として著名大学を渡り歩き、米グーグルやアップルの副社長を歴任するなど経営者の顔も持つ。現在はパナソニックホールディングスで執行役員を務め、今年9月には家事提案・支援サービス「Yohana(ヨハナ)」を発表した。

ヨハナとは、掃除代行や家族へのプレゼント選びなど、家族の暮らしの課題を専門のファミリーコンシェルジュが解決するサブスクリプションサービスです。先行して発表した米国では大成功。ただ、日本での導入にあたっては懸念もありました。私自身もそうでしたが、家事を誰かに頼ったり、家に他人を入れたりしたがらないのではという疑念です。

心配は杞憂(きゆう)でした。事前に国内でトライアルを実施したのですが、様々なリクエストが寄せられました。夕飯の献立を考えてほしい、週末に温泉に行きたいのでおすすめを教えてほしい……。「家族の一部になってくれた」という声も多かった。日本でもニーズが高い事業なのだと改めて実感しました。

プライベートでは4児の母。ヨハナにはその子育て経験が投影されている。

「マミーギルト」という言葉がありますが、私自身も罪悪感を抱えてきた一人です。研究者として慌ただしい生活を送る中で最初の子が生まれたのですが、当時は仕事と両立できる自信がなかった。そこで掃除代行を入れようとしたら、親に言われたんです。「そんな母親なら(仕事を)やめなさい」と。

後に代行を頼み始めてからも、しばらくは、ある程度部屋をきれいにした上でお願いしていました。そうすれば親にも「ちゃんときれいにしているよ」と言えますので。

掃除を頼む部屋を増やしたり、洗濯もお願いしてみたり。少しずつ手伝ってもらう範囲を増やしていきました。こうしたサポートなくして、今の私のキャリアや生活はあり得ません。それならばこの方法をみなさんに広めたい。各家庭の家事において、他人に任せても大丈夫という領域を少しずつ広げていきたい。そう思うようになりました。

ヨハナ事業の展望について日本で説明(2022年9月)

新型コロナウイルス禍の経験も大きかった。これまでは何とか仕事と育児を両立させてきましたが、パンデミックでそのバランスが崩れてしまいました。在宅で日々会議などの仕事に追われる中、学校閉鎖で暇を持て余している子供たちが次々話しかけてきて、一息つく時間もない。初めての経験で、精神的にも本当につらい状況でした。

でも周囲を見回したら、悩んでいるのは私だけではなかったんです。忙しい人や家族を手助けするテクノロジーを生み出したい。そんな思いからサービスは誕生しました。

20代でロボット工学に出合い、長らく米国で研究者として活躍。経営者の立場になった今も「自分はイノベーター」と話す。

もともと私はプロテニスプレーヤーを目指して海を渡りました。度重なるケガに悩まされ、夢を諦めた時に出合ったのがロボット工学です。最初はテニスロボットの開発に夢中になっていましたが、25歳の頃に「これだけ勉強してきたのだから、知識やノウハウは誰かのために使いたい」と考え始めました。

身体障害者用ロボット、ヘルスケア……。つくるものは日々変化していますが、私のミッションは変わりません。人間とソフトウエア、人工知能(AI)、ハードウエアをつなげて暮らしを良くしたい。みんなになりたい姿になってもらうためのテクノロジーをつくりたい。

今を生きる家族が幸せであるように、支え合うスタイルをつくりたい。そんなふうに考え続けています。

1971年、東京生まれ。理系に進んだきっかけは両親の教育にあるという。

東急不動産のデベロッパーだった父と、主婦の母のもとで育ちました。幼い頃から言われていたのは、「ユニークでいいよ」。自分らしくあるべきだと教わってきました。

今でも覚えているのは小学校の図工の授業です。校内の木の絵を描く課題でした。同級生は同じ木のもとに集まったのですが、私は他の人とかぶりたくないので、普段登っていたお気に入りの木のもとへと走りました。しばらくして、心配した先生が探しに来て、「みんなと一緒に描きなさい」と言うんです。「どの木を選んでもいい」と事前に言われていたんですけどね。

両親の考え方はとてもロジカル。特に父は物覚えが良かった。なぜすぐに覚えられるかというと、脳内にタンスのような引き出しをつくり、情報を整頓しているからなんだそうです。

父の教えを受け、私も物を覚えるときは脳内にタンスの絵をつくっていました。数学や物理が好きになったのも二人の影響です。中学生の時、理科で学年トップの成績を取ったことが自慢でした。

幼い頃はテニスに夢中。中学校卒業後は米国に渡り、フロリダの名門「ニック・ボロテリー・テニスアカデミー(現IMGアカデミー)」の門をくぐる。

最初は水泳を頑張っていました。テニスを始めたのはけっこう遅くて、小学4年生ぐらいでしょうか。練習拠点だった荏原湘南スポーツセンター(神奈川県藤沢市)には、元プロテニスプレーヤーの杉山愛ちゃんらがいました。愛ちゃんとはすごく仲良しで、今も会うとテンションが上がってしまいます。

プロテニスプレーヤーを志し、中学校卒業後に渡米した

当時はとにかくテニスのことしか見えていませんでした。中学時代の日本ランキングは20位ぐらい。プロになりたい一心で、米国留学も自分の意思で決めました。ニック・ボロテリーはかなり厳しい練習環境でした。両親が学業との両立を望んだこともあり、カリフォルニアの高校に移ってテニスを続けました。

でも、ケガを繰り返すうちにランキングも落ち、限界が見えてきました。一緒に米国に来ていた母が言うんです。「テニスで世界一になれるの? 世界のトップ50の女性選手がどんな生活をしているのか調べてみなさい」と。

少し調べてみてがくぜんとしました。プライベートを犠牲にして世界を転々としているのに、獲得賞金は少ない。家も買うことができない選手ばかりでした。そんな中、大学生になったある日、足首を骨折しました。同じ場所の骨折は3回目でした。テニスは続けるにしても、プロになる夢は諦めざるを得ないと思うようになりました。

プロ選手の夢を断念し、次の目標を探す中でロボット工学に出合う。

得意な数学と物理を生かしたくていろんな分野を見て回るうち、ロボットづくりに興味が湧くようになりました。

そこで当時通っていたカリフォルニア大学バークレー校でロボットを研究していた教授を訪ねました。「テニスをするロボットをつくってみたい」と頼んだところ、「私の教え子たちと一緒にやっていいよ」と、あっさり研究室に入れてもらえました。

テニスができるロボットについてのイメージをまとめた自筆のスケッチ

私にはこうした運に恵まれているところがあります。ロサンゼルスへの遠征中、チームメートの付き添いで参加した就職説明会もそうでした。日本語を話していたらアップルの社員の方に偶然声をかけられ、インターン面接を受けることになりました。結果は合格。社員の方たちとはいまだに友達です。

それにしてもロボットづくりは面白かった。腕を動かす作業一つとってもすぐ壁にぶつかるので、人工知能(AI)や神経科学などいろいろ勉強しました。マサチューセッツ工科大(MIT)で修士号、博士号と取って。選手時代と変わらないパッションでのめり込み、人間のように動いて学ぶロボットづくりに取り組んでいました。

研究実績は積み上がっていったが、テニスロボットの完成への道は想像以上に険しかった。

私の考えるロボットの理想型はテニス選手のヒッティングパートナーのような物でした。そのためロボットにAIを組み込み、物をつかむ動作を繰り返し学ばせて。脳が人間の体を動かす方法もモデリングしました。それでもテニスができるわけではない。人間のようにテニスをするところまでは、技術や研究がいまだに追いついていません。

もはや、自分のわがままでテニスにこだわっている場合ではないと思いました。これまで学んできたものを、病気の方や体が不自由な方のために生かして、毎日の生活を手伝うことはできないか。人の助けになるロボットをつくりたいと考えるようになりました。25歳のころでした。

ハーバード大でのリハビリ用ロボットの研究を経て、カーネギー・メロン大で助教授になりました。いずれは企業で人の役に立つ物をつくりたいという思いもありましたが、一度企業に入ってしまうと教授になりにくいというアドバイスを周囲から受けていたので、まずは研究者の道を選びました。

プライベートでは31歳で結婚した。2年後には双子の長女が誕生。2006年にはワシントン大に移り、長男を出産する。

夫も研究者です。最初の妊娠を大学側に報告したとき、「どんなルールをつくりたい?」と聞かれました。実は、カーネギー大にはこれまで出産・育児休業を経験した女性がいなかったんです。

研究者の夫、4人の子供たちと一緒に

私はすぐに仕事に戻りました。娘2人は未熟児で生まれたので、最初の3週間は入院していて。仕事の合間に母乳を飲ませるために病院に通いました。休んだ記憶はほとんどありません。

カーネギーだけでなく、次の職場でも育休制度はありませんでした。私も長く休暇がほしいタイプでもなかった。子供をおんぶしながら授業をしていた時期もありました。授業に支障がないように直前にミルクを飲ませて、ゲップをさせて、と細かくスケジュールを決めていましたね。

仕事との両立は大変ですが、子育てはとても楽しかったです。私自身は一人っ子。幼い頃遊び相手がいなくて暇だったので、たくさん子供が欲しかった。忙しくて4人に落ち着きましたが、本当は7人欲しかったんですよ。

研究者として、母として忙しい日々を送っていた2009年、米グーグルの研究部門「グーグルX」から声がかかる。

グーグルのオファーは突然やってきました。いきなり会社に呼ばれ、そうそうたる幹部たちに進路希望などを尋ねられて。医療や生物工学などあらゆる分野で最先端の技術を研究する組織をつくるので、創設者の一人として入ってほしいという話でした。

私としても長らく大学にいる中で、消費者との距離が遠すぎることが不満だったので、良い機会だと感じました。「1年がんばってみて、嫌だったら帰ってくればいい」ぐらいの気持ちで家族とシリコンバレーに引っ越しました。

それまでと環境ががらりと変わって、職場はいきなりマンモス企業の中枢です。外から見るとゆったりした時間が流れているように見えますが、中では絶えず小さい企画が動いていました。メガネ型端末「グーグルグラス」など、初期に携わったプロジェクトが今、商品として世の中に出回り始めています。

でも、望んでいた「お客様の顔を見る」という環境とはちょっとズレていました。将来の物をつくる、5年後に成功する物をつくるという会社のビジョンからすると仕方ない部分はありますが、私は開発した商品をすぐにでも使ってもらいたかった。

そんな時にカーネギー時代の教え子に偶然出会いました。シリコンバレーで仲間とスタートアップを立ち上げるといいます。好奇心の血が騒いだ私は、あっさり転職を決めてしまいました。

次なる挑戦の場として選んだスタートアップ「ネスト・ラボ」では、スマートサーモスタット(室温調整装置)をはじめ、あらゆるモノがネットにつながるIoT機器の開発に取り組む。

ネストはアップルのiPhoneの考案者の1人が立ち上げ創業した企業です。社内には、アップルの元社員が多く、そのカルチャー文化が根付いていました。グーグルとは全く異なる環境で、ビジネスや研究の速度が桁違いに速い。

感覚としては、歩いたことがない人がいきなり歩く練習をしているようなものです。それ今まで学んだできた内容が何一つ使えないのではんじゃないかと思ったことさえありました。ものすごくつらい日々でしたが学びや生きがいも多く、おかげで今の私があります。そのネストは2014年にグーグルに買収されました。

次男を出産したのもこの頃。育児休業制度はまたも整っておらず、10日後には職場に戻った。

当時守っていたスケジュールがあります。朝3時に起きて仕事をし、それからお弁当を作ったり子供を起こしたり。バタバタと車に乗り込んで子供たちを学校に送り、そのまま職場に向かいます。退社は午後3時。子供たちを迎えに行き、習い事に付き添って。一緒に夕食を食べて早めに就寝。1日が終わります。

「子供おいてでもやる価値のある仕事か」と自身に日々問いかけながら働く

職場での視線は正直厳しかったように思います。米国だと朝が苦手なエンジニアも少なくないので、午前10時半ぐらいに出社してくるんです。なので、私がどんなに朝早くから働いていても、午後3時に退社しようとするとけげんな顔で見てきます。

そのためにも仕事で結果を出すしかなかった。早朝に起きるようになったのは、働く時間を少しでも確保するためです。一生懸命働いていても、まだ足りないと思ってしまう。周囲の女性を見ているとみなさん同じように、必要以上に頑張っているような印象がありますね。

早朝のジョギングが数少ない、自分だけの時間でしたね。忙しいからそういう余暇の時間を削ろうとしたのですが、そうすると子育てはうまくいかないし、仕事の生産性も上がらない。エグゼクティブコーチから「ミーティングをキャンセルしてでもジョギングに行きなさい」と言われたこともありました。

むしろジョギングを楽しんだ日は頭がすっきりして、優しい母親でいられます。プライベートな時間の重要性を少しずつ学んでいきました。

15年にはヘルスデータを扱うスタートアップ「カンタス」の最高経営責任者(CEO)に就任。翌年アップルに移り、「HealthKit」をはじめとしたヘルスケア事業を手掛けた。

40代になり毎日の忙しさは増していましたが、守り続けた信念がありました。毎朝起きたときに「きょうの仕事は子供をおいてでもやる価値があるか」と必ず自身に問いかけます。人生で一番好きなのは子供と過ごしている時間。ズルズルと働いている間に子供が大きくなってしまった、なんて状況は避けたい。新しい仕事を選ぶときも同じ問いかけをして、人のためになる、意義ある仕事をやる自負を持とうとしています。

仕事と家庭。どちらも私にとってはすごく大事なものです。子育てでイライラすることがあれば、仕事で全く違う脳の部位を使ってみる。仕事で難しいことが起きると、子供たちに会いたいと思う。仕事は子育てからのバケーションで、子供たちは仕事からのバケーションなんです。

自分の子供にも将来は、ただ働くのではなく、世界を変えていくための仕事をしてほしいと思っています。最近は大きな会議に呼ばれた際は子供たちも連れて行き、自分の働く姿を見せています。手つかずになっているSNSは子供のほうが得意だと思うので、参加してもらっています。

双子の娘はいま高校3年生です。私自身もそうでしたが、やりたいことをむやみに探さなくてもいい。私の働く姿を隣で見ながら様々な経験を積み、視野を広げつつ進路を見つけてほしいと思います。

2017年には、グーグル傘下のネスト・ラボに戻り、グーグル副社長も務めた。19年秋にはパナソニックホールディングスのフェローに就任。今年9月には家事提案・支援サービス「Yohana(ヨハナ)」の日本での展開を発表した。

大企業の経験を通じて、イノベーターとして自由にものづくりをしたいとの思いが芽生えました。自分でスタートアップを立ち上げてもいいし、大企業と組んでもいい。GAFAを含めて色々な企業の方に日々会いながら、構想を膨らませていました。

パナソニックもそんなときに声をかけてくれた企業の一つでした。日本企業で働いたことがないため、当初は選択肢に入っていなかった。米国でパナソニックといえば、テレビや電子レンジといったイメージです。「なぜ私がテレビの会社と手を組まなければいけないのか」とあまりピンときていませんでした。

でも、大阪の本社を訪れて幹部の方々に会うと、考えは一変しました。創業者である松下幸之助さんのDNAが社員一人ひとりにしっかり根付き、「人々の暮らしを良くしたい」と心から願っている様子が伝わってきたのです。

テクノロジーは理想の自分になるためのプラスアルファの力になり得ると考えている

松下さんの考え方にも感銘を受けました。松下幸之助歴史館を訪れ、「家庭電気器具を作って日本の婦人を台所から解放した」など数々の言葉に触れたのですが、心に留めておきたいものばかり。私のやりたいこととも合致していました。入社の意思はすぐ固まりました。

生活家電からAV、住宅設備まで。パナソニックの強みは「生活の隅から隅までを支えていること」と話す。

日米の大企業を見てきましたが、組織の構造はグーグルもアップルもパナソニックもさほど変わらない印象です。縦割りの弊害や部署間のぶつかり合いはどうしても起きてしまう。そんな中、パナソニックが重要視していて魅力的だと感じるのは、お客様の声を聞いて寄り添い、暮らしを理解すること。一人ひとりの生活のウェルビーイング(心身の健康や幸福)を追求しています。こうした考え方をする企業は、実は米国にはあまり多くありません。

これだけ生活に根ざした商品がそろっているのはとても魅力的で、暮らしを支えるプラットフォームになる可能性があります。私の長年のミッションや成功体験、失敗経験をもとに生まれたヨハナでも、こうした考え方を大切にしたい。お客様が求める要望に合わせ、掃除代行、料理代行をはじめ、様々なパートナーと話し合いながら便利なサービスを提供していきます。

テクノロジーを使って生活をいかに良くするかを考え続けている。

私ももう50代です。日本の友人や同世代の女性と話すと、大なり小なり、キャリアのため生活を犠牲にしてきたと感じます。「子供を産みたかったけれど仕事ができなくなるから産めなかった」「本当は子供は2人以上ほしかったけれど我慢した」……。

共働きが当たり前の時代です。女性には仕事と家庭の両立を諦めてほしくない。女性活躍の遅れというのは日本に限らず、世界的な課題でもあります。仕事を通して社会に貢献する気持ちを持ち続けてほしいとも思います。

テクノロジーの力で、そんな世界をつくる手助けをしたい。思えば、過去もロボットで脳卒中や身体に障害を持つ人のリハビリを支えました。テクノロジーは、理想の自分になるためのプラスアルファの力になり得るんです。

ゲームやソーシャルメディアなどの技術は日々進歩していますが、生活にテクノロジーが入り込む余地はまだまだあるはず。これからの活動を通じて「より良い生活を送るために誰かの手を借りる」という文化をもっと定着させたい。このミッションに共鳴し、一緒に活動してくれる人も育てたいと思います。「手伝ってもらってえらいね」と言われるくらいの世界にするのが、私の夢です。

(堀部遥)