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ライフ創業者 清水氏の遺言「ずっと戦後でいい」の真意

今でもあの時のことは鮮明に覚えている。2005年12月15日、東京都内で開かれたダイエー創業者、中内㓛氏の「お別れの会」の冒頭、日本スーパーマーケット協会の会長だった清水信次氏(ライフコーポレーション会長)による開会の辞での光景だ。

マイクの前に立った清水氏。15秒ほど間を置き、深呼吸をしてから話し始めた。

「今を去る60年前の敗戦で、酷寒零下40度のソ満国境水綏芬河(すいふんが)の関東軍国境守備隊から、灼熱(しゃくねつ)のフィリピン戦線に送られ……」と、中内氏の過酷な戦争体験を涙声になりながら絞り出すようにスピーチは始まり、会場は静寂に包まれた。

中内氏のお別れ会に出席した清水氏(05年12月、東京都内)

自身は戦地には赴かなかったものの、爆弾を抱えて米軍の戦車に轢(ひ)かれることを想定した理不尽な特攻訓練を経験していた。中内氏の筆舌に尽くしがたい苦難を約2300人の出席者に改めて知ってほしかったのだろう。そんな清水氏の口癖は「絶対に戦争はしてはいけない」だった。

天命感謝の達観

清水氏の訃報(享年96)が伝わった11月7日、一度会ったら忘れられない、あの笑顔を絶やさない福顔を思い出した。その日の夜のニュースや翌日の新聞朝刊には清水氏の足跡、評伝が紙幅をさいて紹介され、清水氏の存在感の大きさを改めて知った。

戦時中の厳しい体験、そして戦後のヤミ市から這(は)い上がり、関東と関西にバランスよく店舗網を築いた清水氏が記者にしばしば語ったのは「天命感謝(てんめいかんしゃ)、不惜身命(ふしゃくしんみょう)」。時代や境遇は天から与えられた運命、それを嘆いては身も蓋もない。今ある環境に感謝して死を厭(いと)わず、精いっぱい頑張るしかない。この達観が清水氏の真骨頂だ。

そんな清水氏だが流通業界をミスリードしてしまったことがある。1980年代後半から90年代前半にかけて、世間を騒がせた不動産大手の秀和による流通企業の株買い占めにおける清水氏の振る舞いだった。

秀和事件にも戦争の影

昭和の流通史に刻まれた「秀和事件」。ここにも戦争の影が色濃く表れた。清水氏は秀和を率いる小林茂氏と偶然にも陸軍で同じ班に配属され、訓練では俊敏な小林氏に幾度となく助けられたという。戦後は小林氏が不動産、清水氏が小売業と道は分かれたが、清水氏は小林氏の建てたマンションに住んでいたこともある。

当時の清水氏は中堅スーパーの大同団結による売上高1兆円構想を思い描き、その夢を小林氏に語っていた。その気持ちをくんでかどうかはわからないが、時はバブル経済だった。小林氏はライフ、長崎屋、いなげや、忠実屋、マルエツなどの流通株を買い集め、清水氏の1兆円構想を後押しした。

自然と表舞台に押し出された清水氏は各社と協議していくが、ことごとく不調に終わる。各社とも創業者が経営の一線にいて、独立心も強かった。合併や経営統合の交渉自体が膠着状態に陥ると、清水氏は表舞台から自ら降りた。

この時期を振り返ると、清水氏は中曽根政権時代の87年に売上税(現在の消費税)導入反対の急先鋒(せんぽう)に立ち、時の人となった。そして見事に導入断念の流れをつくり、庶民から喝采を浴びた。ある意味、絶頂を極めていて、高揚感のあるなかで複雑にもつれた流通業界の再編劇をさばけると錯覚したのだろう。

戦中派経営者との関わり

近い間柄だった秀和と一線を画すようになったのも、やはり戦後がキーワードだった。ライフは地方スーパーなどで構成する共同仕入れ・商品開発会社の日本流通産業(ニチリウ)に加盟しており、その有力メンバーが広島が地盤のイズミと滋賀の平和堂だ。89年夏、イズミの山西義政社長(当時)や平和堂の夏原平次郎会長(同)らに呼び付けられ、「秀和につくのか、我々小売業者について各社の独立を尊重するのか、明確にしてくれ。秀和につくならニチリウから出て行ってもらう」と最後通牒(つうちょう)を突き付けられた。

山西氏、夏原氏とも戦争体験者だ。戦後の混乱期をくぐりぬけ、商人として苦労してきた同士2人からの言葉は重く、清水氏は「ニチリウの発展に力を尽くしたい」と一筆入れた。そして株買い占め問題の解決を業界の盟主だったダイエーの中内氏に委ねたのだ。

ダイエーからの金融支援について記者会見する秀和の小林社長(左)とダイエーの中内社長(90年12月)

清水氏は一足早くスーパー事業に乗り出していたダイエーを参考にして、60年にライフ1号店を開いた。中内氏には事あるごとに教えを乞うことになる。当然のように2人の会話の多くが戦時中のことだった。

「清水さん、国家というのは怖いで、恐ろしいで。頭のいい高級官僚や軍人が勝てっこない戦争を始めてしまって、政治家とか官僚は国民のことを考えてくれへん。ほんま気いつけや」。そう話す中内氏の言葉を何度も聞いていた。清水氏も全く同じ意見だった。有力経営者になった清水氏が財界、業界団体を通じて政府や官僚とたびたび税制などで対峙したのはこうした原体験が背景にある。なお、秀和による流通株買い集めの解決には中内氏も手こずり、事実上、頓挫して終わった。

流通業界の世代交代見守る

90年代半ばのころには清水氏の口から食品スーパーの大同団結、再編の話は出なくなった。ライフ自体が成長を続けていたことと、当時は強引なM&A(合併・買収)は日本社会に受け入れられないと悟ったからだった。

2000年前後になると流通業界の世代交代、業界団体の活性化などの発言が目立つようになる。その象徴的な1枚の写真がある。01年5月10日、日経MJ創刊30周年パーティーでの一コマだ。フリースブームで絶好調だったファーストリテイリング創業者、柳井正氏とダイエーの中内氏が初対面で名刺交換する写真の中央にまるで後見人のように清水氏が笑顔で写り込んでいた。

「MJ 日経流通新聞30周年記念」のパーティーで中内氏(右)と柳井氏の名刺交換に立ち会う清水氏(01年5月、東京都内)

その場で清水氏に「いいポジションに居ましたね」と話しかけると、「たまたま会場の中で人だかりがあったので、何かなと思って見にきただけ」と語ったが、「柳井さんは戦争を知らない経営者。歴史の瞬間ですなぁ」と流通業界の世代交代を感慨深げに見守っていた。当時のダイエーは極度の経営不振に悩まされていた。

「戦前にしてはいけない」

中内氏が亡くなった翌06年、清水氏はライフ社長を退いて会長に就き、大株主の三菱商事出身の幹部を後継社長とした。

心臓のバイパス手術が成功して約半年後の09年11月。清水さんと世間話をする時間をもらったので単刀直入に聞いてみた。「清水さんの足跡は戦争と戦後を引きずってますね」。すると、こんな答えが返ってきた。「ずっと戦後でいたいですなぁ。戦後で。それでいいと違いますか。戦争の生き残りとしての役割はですね、絶対に『戦前』にしてはいけないことなのですよ。新たな戦前になったら、また戦争が始まることになるから」

清水氏は、ロシアによるウクライナ侵攻をどう見ていたのだろうか。もし取材していたら3~4時間は猛烈な勢いで語り続けていたに違いない。