

食品の値段が上がったり、健康のために食べることを我慢したり、はたまたひいきのレストランが閉店したり――。このごろ、「おいしい」を取り巻く環境が厳しくなってきていると、感じる機会が増えている。こうした問題を解決するための方策の一つとして、テクノロジーの力は欠かせない。来年も、10年後も、100年後も、おいしいものを食べるための知恵と覚悟を探ってみた。


召し上がれ ラボ育ちの味わいを
ニューヨークでも予約困難で知られるミシュラン三つ星の「Chef's Table at Brooklyn Fare」。日本円で優に1人5万円を超えるおまかせコースの締めくくりに一時期、艶やかなイチゴがそのまま提供されていた。
このイチゴを栽培しているのは、日本人の古賀大貴さんが2016年末に米国で創業した「Oishii Farm」の植物工場だ。日本の贈答品と同程度の糖度と食感をうたっている。古賀さんは米国に経営学修士(MBA)留学中に日本の果物のおいしさを確信し、現地で植物工場を作ると決めた。

30室ほどあるという「研究開発部屋」に、おいしさの秘密がある。日本で権利が切れた品種のイチゴを米国に持ち込み、部屋ごとに「光量」や「培養液」が異なる環境で育て、栽培レシピを編み出した。ハチが自然環境と錯覚するほどで、難しいはずの受粉も安定した。
日本の農家でも天候などで品質に波があるところ、植物工場では一度最適解が見つかれば「世界中どこでも百発百中再現できる」と古賀さん。気候変動や耕地面積の減少などを見据えると、「電気自動車が増えてきたように、今後は植物工場で作れるものは工場産がメジャーになっていく」とみる。
ラボ育ちの食べ物は、いまや野菜や果物にとどまらない。近年注目されているのが、海や川と完全に切り離された環境で養殖する魚だ。電力は消費するが、海への負担は少ない。持続可能な食材として評価され始めている。
たとえば三井物産が出資するFRDジャパン(さいたま市)のプラントは、海辺からは車で30分ほど離れた千葉県木更津市の丘の上にある。丘の上で育つから、ここで取れるトラウトサーモンの名前は「おかそだち」。高級スーパー「紀ノ国屋」が販売するほか、ホテルニューオータニがメインダイニングの食材に採用した。

さらに、魚の新品種を次々と生み出す企業も登場した。リージョナルフィッシュ(京都市)は、天然ものに比べて可食部が2割増えたタイや成長速度が約2倍のフグの養殖に成功した。
同社独自の「超高速」ゲノム編集技術がこれを可能にした。元からその魚が持つ遺伝子の一部を切り、品種改良につなげる手法だ。自然界でも何十年と待てば起こりうる変化を狙って起こし、2~3年で完了させる。他の生物の遺伝子を加える遺伝子組み換えとは全く異なる技術だ。
梅川忠典社長は「私たちはつい『天然』や『自然』という言葉においしいイメージを持ちがちだが、実は天然のものをほぼ食べていない」と指摘する。日々の生活で口にする農・畜産物の多くは、育てやすさやおいしさのために品種改良されたものだ。
日本では水産物の生産量がこの30年で3分の1に減少した。一方、世界では消費量が急増し「今まで通り魚を食べ続けられる保証はどこにもない」(梅川さん)。今秋もサンマの不漁やサイズの小型化が話題になったが、日本の豊かな魚食文化を守るためには、テクノロジーが不可欠な状況にある。
供給不足や環境への負荷が指摘されているのは肉も同じ。東京大学駒場キャンパス(東京・目黒)の研究室では、37度に温まった装置の中で、牛のほほ肉からとれた細胞が液体につかって培養されている。この研究室は3月、日本で初めて食用可能な素材だけを使って「食べられる培養肉」を作製した。

「噛(か)みごたえがちゃんとある!」。研究グループの一員、日清食品ホールディングス(HD)の古橋麻衣さんが培養肉を一口食べた感想だ。まだわずか数センチの薄い肉片だが、「分厚い培養ステーキ肉を作る」という最終目標に向けて大きな一歩を踏み出した。これからは実際に人の口でも、味わいや歯ごたえを確かめながら研究を進められる。
研究を主導する東大の竹内昌治教授は実際口にしてみて「鉄分が足りない」と思ったという。実用化に向けて技術的な課題は多いが、竹内教授は「まずは畜産の肉と同じ肉を作る技術を確立したい」と話す。
その上で、現在売られる肉の成分の中でおいしさに関係ないものを抜き、関係の深いものだけを増やすことだってできるかもしれない。「その肉は天然の肉を超える可能性がある」
とはいえ、目新しい食べ物を前に最初は抵抗を感じる人も少なくないだろう。食べ物は自分の体を形作る。保守的になるのも当然といえる。
東京・日本橋で昆虫食レストラン「ANTCICADA」を営む篠原祐太さんは違った。幼少期から草むらなどで見つけた昆虫を日常的に食してきた。必ずしもおいしいものばかりではないが、「味わって体内に取り込むことで、育ってきた環境などを深く理解できる」と語る。

予約制のコースでは、昆虫以外にもジビエや野草など幅広く珍しい食材を使う。新しい味を体験するワクワク感を伝えたいからだ。篠原さんは培養肉など人が作り出すものも地球上の食材として興味があるという。
人間の祖先であるホモ・サピエンスは、何でも食べる雑食だからこそ生き残った。気候変動やパンデミック(世界的大流行)、紛争などが日々の食卓に大きな影響を及ぼすことがわかった今、私たちはこれから何を食べて生きていくのか。一人ひとりの好奇心が試されているのかもしれない。
明日のごちそう テックが手ほどき
未来の塩は食器の形をしている。
9月下旬、料理研究家の今泉久美さんの東京都世田谷区にある自宅で、しょうゆラーメンとクッパの試食会が開かれた。一般的に濃い味付けが好まれるメニューだが、どちらも塩分は控えめで薄味の仕上がりだ。

少し物足りなそう、という心配はご無用。なぜなら、塩味は食事がよそわれた特別なおわんやスプーンが補ってくれるからだ。実際にクッパをこのスプーンで口に運んでみると、舌先に電気の流れた感覚が一瞬走り、すぐに強い塩味が追ってきた。
一見シンプルな白い食器にしか見えないこのおわんとスプーンは、キリンホールディングス(HD)が開発した。その名も「エレキソルト」だ。明治大学の宮下芳明研究室と共同研究した技術を搭載した。電源を入れて、食器の表面にある電極を指で触れると、人体に影響のない微弱な電流が食品を介して体内に流れる。そして、食品の中に散らばっているナトリウムイオンを電流の力で動かし、味を感じる舌に多く触れるようにするという仕組みだ。
開発を担当したキリンHDの佐藤愛さんは、病院関連の仕事をした時に食事療法に取り組む人々のつらさを知った。おいしさを妨げずに、健康的な食事ができればいい――。こんな思いが商品開発の原動力になったという。
これに呼応したのが料理雑誌を発行するオレンジページ(東京・港)だ。減塩レシピ開発に実績がある今泉さんに依頼し、エレキソルトに最適なメニューを一緒に考えた。「減塩にはマイナスなイメージが強く、悲観的になりがち。でも、この道具を使えば楽しく頑張れるはず」と今泉さんは期待する。味も健康も諦めない時代が近づいてきている。

宮下教授によると、人間の舌には「甘味」「酸味」「塩味」「苦味」「うま味」の基本五味を感じ取る個別の受容体があり、ほとんどの食べ物の味がこの五味のバランスで表現できるという。その比率と同じ刺激を舌に与えれば、どんな味わいでも再現できる。
宮下教授が意識しているのは、赤、青、緑の光の三原色で様々なイメージを再現したテレビの存在だ。行ったことのない世界の名所や過去の大切な思い出も映像に残せば、いつでも見直すことができる。宮下教授は味覚体験も同じ道をたどるといい、「そう遠くない未来に、家で本場スペインのパエリアも、おふくろの味も食べられるようになるはずです」とニヤリと笑う。
では嗅覚はどうか。鼻が詰まっていてはご飯がおいしくないように、食と香りは切り離せないはずだ。
「どうやら自分の鼻は特別みたいだ」。有名ソムリエのフランソワ・シャルティエさんは約50年前、5歳にしてそう感じたという。出身はカナダ東部・ケベック州。カナダの名物であるドーナツのスパイシーで甘いシナモンの香りを今も記憶する。
特別な鼻を生かして1994年に世界最優秀ソムリエに上り詰めたが、天才的な嗅覚を独占するより科学的に解明したいと考えるようになる。そこで大学などと協力して生み出したのが「分子ハーモニー」理論だ。食材の中に一番多く存在する香りの分子を探し、同じ分子を持つ食材を掛け合わせると、おいしさが増すことを突き止めた。

例えば、マッシュルームとラベンダーという一見斬新な組み合わせも、両方が「リナロール」という分子を持っているため、一緒に食べると「1足す1が3になる」とシャルティエさん。
今年はついに、日本に拠点を構える。欧米の日常的な食事にも合う「デイリー日本酒」の開発を分子の観点から酒蔵などと進めていく予定だ。
大阪・肥後橋にあるレストラン「HAJIME」。看板メニューの「地球」は様々な方法で調理した100種類超の野菜を、雲に見立てた泡状の貝のエキスが包みこむ。直径60センチの有田焼の大皿に2人分が盛られ、両側から食べ進める趣向だ。米田肇シェフはこの一皿に「地球をシェアする謙虚な気持ちを思い出してほしい」という願いを込めた。

大地と海の貴重な恵みを誰かと分け合う。こんな創造的な一皿を末永く楽しみたいと感じるが、米田シェフは「おいしい未来に進めるか、私たちは分岐点にいる」と厳しい見方だ。社会全体で機械化が進むなかでも、料理は手仕事を尊ぶ傾向が今も強く、いわゆる労働集約型の産業だ。長時間の重労働を敬遠し、飲食業や農業の担い手が減っている現実がある。
こうした問題の解決には、テクノロジーが役に立つ。また、野菜の火入れにも盛り付け方にも細かなこだわりがあるが、最新技術で人間より再現性を高められるようになるかもしれない。米田シェフは「百の手を持つ調理ロボットがあれば、最高の状態でお客様にお出しできるのでは」と期待する。
技術の進歩により、食材や調理の常識が変わりつつある。味わいのデータ化で、おいしさは時や場所の壁を越えることになるだろう。一方で、誰かが思いを込めて作った食事の有り難さや大切な人と食卓を囲む喜びは別のところに存在する。テクノロジーの力を借りながら、私たちはおいしさの地平をどこまで開いていけるだろうか。
平野麻理子
竹邨章撮影
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