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登山家・服部文祥さん 釣り竿は「生涯の伴侶」 こころの玉手箱

はっとり・ぶんしょう 1969年横浜生まれ。東京都立大ワンダーフォーゲル部で登山を始め、96年に標高世界2位のK2登頂。同年から山岳雑誌「岳人」編集部で勤務。著書に「サバイバル登山家」など。近著「お金に頼らず生きたい君へ」。

釣り竿

小学1年以来、釣り竿は人生の一部

小学校1年生のとき、ひと月の小遣いではとても買えない、欲しいものがあった。釣り竿(ざお)である。

釣り竿が欲しい、と私は母親に訴えてみた。それは人まねではなく、はじめて私が自分の意志で欲しいと言ったものだった。だからだろう母親はちょっと考えてから頷き、後日、街に出たついでに、九尺のグラスロッドを買ってくれた。

その日から釣り竿は私の宝物になった。何度も伸ばしたり仕舞(しま)ったりして、使ってもいないのにサラダ油をつけた布で手入れまでした。

そして路線バスの回数券(小人)を2枚もらい、一人でバスに乗って池のある公園へ釣りに行った。

大人たちから離れて私はイトを垂らした。なにも釣れなかったが、大満足だった。夕方になり、竿や釣り具を仕舞って帰路についた。

バス停に来たバスは夕方の帰宅客で超満員だった。ドアの周辺の乗客は身を寄せ合って小学1年生だった私のためにスペースを空けてくれた。

なんとか乗り込み「ドア閉まりまーす」と運転手さんがいって、機械仕掛けの中折れ式ドアが、私の目の前ギリギリを通って、閉まった。そのとき、頭の上でクシャリという音がした。

見ると、私の竿がドアに挟まっていた。「ぼうや、何か挟まっているね」と運転手さんがいいドアを開けてくれた。私は素早く竿を手前に引いた。

終点でバスを降り、家へ走った。いやな予感で泣き出しそうだった。

「どうだった」と台所から母親は聞いたが、私はなにも答えることができなかった。ドアに挟まったのが竿ではなく竿袋だけであることを祈りながら竿を出した。

ぱっと見た感じでは、壊れているようには見えなかった。だが、触ってみると竿の先端は見事につぶれ、修理して機能を取り戻せる余地がまったくないことは子供でもわかった。

涙が次から次へとあふれでてきた。

自分の竿を買ってもらったことが、私という人間のキャラクターをはじめて認めてもらった瞬間だったことを、子供心に感じていたのだと思う。

私から事情を聞き出した母親は、私の激しい落胆ぶりを見ていられなかったのだろう、後日、また竿を買ってくれた。

伯母がくれた腕時計

今も現役の自動巻き時計

母方の伯母は大正15年(1926年)に生まれ、帝国女子専門学校の寮生だったときに東京大空襲を経験し、そのまま大学に残って古典の教師になった。生涯独身で、ピース(たばこ)を吹かし、古風なのにモダンな、知的で自立した女性だった。伯母には私を含めて6人の甥姪(おいめい)がいて、その甥と姪が小学校に入学するとき、祝いとして腕時計を買うのが親戚の決まりごとのようになっていた。

よそ行きの服を着せられて、バスと電車に乗って東京に出て、伯母と合流し、デパートの腕時計コーナーに行った。「この中から自分の欲しいものを選びなさい」という母のうしろで伯母がすました顔で立っていた。そこはセイコーのコーナーだった。私はオーソドックスな時計を一つ選んだ。

それは小学生が持つには高価なものだった。当時、腕時計をしている小学生などひとりもいなかった。私も日頃(ひごろ)は机の引き出しの「大切なもの入れ」のなかにしまっておき、気が向いたときに取り出して、眺める程度だった。

ある日曜日、午後から出かける用があって、私は時計を着けて遊びに出た。友達とぶらぶらと歩いているうちにザリガニを捕る小川に着き、覗(のぞ)いたらアメリカザリガニの赤いハサミが見えた。

逃すわけにはいかなかった。時計を腕から外し、半ズボンのポケットに入れた。そのまま、夢中でザリガニを捕っていてふと、午後の用事のことを思い出した。腕には時計がついていなかった。慌ててズボンのポケットをまさぐったがそこにも時計はなかった。

泣き叫びそうになるのをこらえながら、自分がザリガニを捕るために歩いたところを探し回った。あっちに行ったりこっちに行ったりする私について回る友人が後ろから「なにしているの」と聞いた。

「おれ、時計……」と絶望的な気持ちでしぼり出すと、「うしろのぽけっとに入れてたよ」と返ってきて、さっとお尻に手をやると、手になじみのある金属の硬い感じがそこにあった。

時間を見て慌てて家に帰り、これからお出かけだというのに泥だらけで帰ってきたことを母に叱られたが、時計をなくさなかった安堵が勝っていた。

妻に贈った銀のブローチ

銀のゾウムシなので「銀蔵」と命名

当人たちにとってはドラマのような、端からは小っ恥ずかしくて見ていられないような騒動のすえに私たちは結婚した。その結婚騒動の最中に私はアドベンチャーレースに出場するため、ニュージーランドに行かなくてはならなかった。ずっと練習してきたのに、私が抜けたらチームが棄権になってしまう。

レースは最下位完走で終わり、私は帰国する日を心待ちにしていた。何か気の利いたお土産はないものかとクライストチャーチの街をぶらぶらしていて、銀細工の昆虫が目に飛び込んできた。

その銀のブローチはシロコブゾウムシに見えた。クズが繁茂した草原に分け入ると、転がり落ちてきて、死んだふりをする2センチほどの甲虫である。ゆったりした動きや太い脚、とぼけた顔つきなどから私はシロコブゾウムシが好きだった。

迷わずその銀細工のゾウムシを新妻へのお土産にした。

新婚生活が落ち着いて、新居を探し始めた。小さな平屋の貸家を内覧していたら、鴨居(かもい)の上をシロコブゾウムシが歩いてた。

「あ」と声を上げて私はその虫を手に取った。

「すいません」と不動産屋さんは恐縮していたが、私には「虫の知らせ」以外の何物でもなかった。シロコブゾウムシを手に高揚する私を見て、妻は新居は決まったと悟ったという。

シロコブゾウムシは夫婦の隠れたアイコンになり、アイルランドに留学している友人を訪ねた新婚旅行にもゾウムシのブローチは付いてきた。現地で自転車を借り、ロンドンデリーの街をサイクリングで一周して帰ってきたら、妻の鞄(かばん)に付けていたはずの銀のゾウムシがなくなっていた。

ふたりの絆にヒビが入るような不吉な予感におののきながらふと、友人の大学のキャンパスで木の枝の下を自転車で走り抜けたことを思い出した。私は急いで大学へ自転車を走らせた。

果たして、大きな木の枝の下の芝生に、ゾウムシのブローチは落ちていた。なんだか置いてきぼりを食ってちょっと不満そうに見えた。

トナカイ毛皮の帽子

遊牧民と取り替えっこでもらった

2013年春、ロシア、チュコト自治区の荒野を食料現地調達をしながら旅するというNHKとの共同企画にロシア側の許可が奇跡的に下り、出発に向けて、会社に休暇を申請したり、装備を整えたりしていた。ところがいざ出発というタイミングで、米中央情報局(CIA)の元職員が内部事情を告発してロシアに入国するスノーデン事件が起き、取材入国に突然「まった」がかかった。

ロシア大使館は「明日には入国許可が出る」と毎日繰り返し、ただ待つだけの出発延期がずるずるとひと月ほど続いた。とおもったら突然、許可が下り、用意してあった装備を持ってあわてて飛行機に飛び乗った。

チュコト自治区に降り立ったのは、計画よりひと月遅れた9月半ばだった。その荒野はもう完全な秋になっていた。ツンドラに分け入るアプローチで、トナカイ遊牧民と出会い、彼らの生活を見せてもらった。テントは屋根も壁も床もトナカイの毛皮で、中で焚(た)き火を熾(おこ)し、塩ゆでのトナカイ肉をごちそうになった。トナカイの毛皮で作った冬用の服一式も見せてもらっていて、その帽子に目が釘付(くぎづ)けになってしまった。じつは出発のごたごたで夏用の帽子のまま来てしまったことがずっと気がかりだったのだ。

この帽子があれば……と思って見ていたら、遊牧民の奥さんが突然「その帽子はあなたにプレゼントします」と言った。

「しまった、欲しそうに見過ぎた」とあわてて辞退したものの、本心は命を守る装備としてその帽子が欲しかった。

私はかぶっていた綿の帽子(だいぶくたびれている)を奥さんに渡し、トナカイ毛皮の帽子を頭に乗せた。

トナカイ毛皮の服は、手袋は前脚、ブーツやすね当ては後脚、そして帽子は額と、人間の体に対応するトナカイの部位を利用するらしい。

旅の終盤でおそれていたとおり雪が降り出し、トナカイ15頭分ほどの額の毛皮でできている帽子は、私の頭と命を守ってくれた。