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【ぐるなび創業者】滝久雄(6) ピンかキリか 三菱金属で仕事に励む 高評価、かえって独立心に火

就職について母は常々「医者か弁護士、でなければ三菱、三井、住友」と言っていた。このあたりなら夫の影響が及ばないだろうと彼女なりに考えたのだ。夫の理不尽さを知る母は、息子が仕事で父親とかかわることを恐れていた。

 

担当教授に母の言葉を伝えると、三菱金属鉱業(現三菱マテリアル)の大井工場を勧めてくれた。超硬合金の研究と超硬工具の製作を行っていた。試験はなく、通勤時間15分以内。私の希望とも合った。

高校、大学と、遊んだ轍(てつ)を踏むまいと、「囲碁を少々」と言って、仕事一筋を貫いた。9カ月の研修は経理、総務、営業所を選んだ。過去、そんな選択をした技術者はいなかったが、「技術畑に行ったら二度と回れない部署を経験したい」と言った。大正解。在庫管理から会社の仕組みまで全体を俯瞰(ふかん)して見られるようになった。

始業は8時。30分前には着き、10月から6時10分に出社した。初日、守衛に「こんな早く来るんじゃない」と怒られたが、総務課長が「新入りが感心だ。早すぎるというのは逆だよ」と言ってくれた。

出社すると工場の周りを何周も走り体を鍛えた。歴史のある企業だけに古い体質が残り、食堂では大卒者と高卒者が分かれて食べていた。私は自分の部署の高卒者と食事をしたが、一事が万事、職場には見えない壁があった。

企画したのがスキー旅行。土曜に夜行で行き、日曜日1日滑って、夜行で月曜の朝に戻る。草津や苗場などにほぼ毎週、別の部署の人も誘い、約20人を引き連れて行った。早朝出社で体を鍛えたのが役立ち、職場の風通しを少しは良くしたと思う。

会議では積極的に発言し、ドイツ語の技術論文の翻訳も買って出て、四苦八苦の末に仕上げた。顧客を前に行う自社の超硬工具の立会い試験も楽しかった。自社、他社のいずれかが決まる試験で、私はいつもうまく結果を出すので、営業担当は私を連れて行きたがった。売り上げに少なからず貢献したと思う。

仕事に乗っていた3年目の1966年、研修で人事課長に引率され、ソニーの厚木工場を視察した。確かに素晴らしかった。同期は「ソニーはすごい。それに比べウチは」と言った。私は「この経験が出来たのも、我々が感激すると思って連れてきてくれた人がいたからだ。三菱金属も捨てたものでない」と話した。

平素の働きに加えてこの視察が評価されたのか、時を置かずドイツ留学が内定した。大学では勉強せず、入社試験があったらおそらくビリだっただろう。それが同期45人中、最も高い評価を受けたのだ。

小さいころから父に五島慶太、阪急の小林一三などの話を聞かされていた。しかし起業が厳しいことも知っていた。私は独立する基準を副社長になれるかどうかに置いていた。新人研修の時、会社の幹部が「社長になれるのは時の運。しかし実力があれば副社長にはなれる」と語っていたのが耳にあったからだ。同期で最高評価を受けたことは副社長になれる可能性があると生意気にも思った。

私は「ピンかキリか」で考えた。全力で実業家を目指すが、たとえその結果がダメであっても後悔しない、と。辞める決断をした。

しかし立つ鳥跡を濁さず。引き継ぎのため膨大なレポートを作成し、さらに終業後に自由参加で勉強会を半年間開いた。毎回約20人が参加してくれた。4年目の3月末、辞表を提出した。

(ぐるなび創業者)