4本柱の事業はバラバラに見えますが、一貫しているのは社会貢献をビジネスに取り入れるという考えです。離れた場所に布石を打たないというのが私の経営戦略で、いずれも既存事業のすぐ隣を見渡したときに生まれたアイデアを結実させたものでした。
とはいえ、最初からこのような会社を創り上げようと意図していたわけではありません。9年余り勤めたトヨタ自動車を飛び出してからもうすぐ四半世紀。五里霧中の中を駆け抜けてきた結果、気がつけばたどり着いていたというのが正直なところです。
私なりに必死に考え、行動に移してきた結果ですが、節目ごとに人との出会いに支えられてきました。その中でもやはり私の人生の針路を決定づけたのがブックオフコーポレーション創業者の坂本孝さんとの出会いでした。
私にとって唯一無二の師匠ですが良いときばかりではなかった。時に付き従い、時に反目してきました。破門を言い渡されたことは何度あったか。人のハートに火を付けるカリスマであり、希代のアイデアマン。そしてとんでもない頑固オヤジ。それでも師はいつも私の道しるべでした。
正直、起業するまでの私の半生については語ることがあまりない。学生時代は打ち込めるものも見つからず平凡な毎日を過ごしていました。
熱中したのはビートたけしさん。深夜1時から3時までのラジオ放送を生で聞くだけでなく、カセットに録音して次回放送まで何度も聞き返しました。高校のときにはたけしさんが修行した浅草のストリップ劇場「フランス座」をひと目見たいと東京に行った熱烈なファン。後にたけしさんの作品からどん底を抜け出す力をいただくとは思ってもみませんでした。
就職したトヨタではアフターパーツの担当。希望した宣伝部門とは違って地味な部署に感じましたが、今思えば幸運でした。トヨタの系譜をたどれば82年に本家のメーカーと販売部門が一緒になった「工販合併」がありますが、私の部署は自販と呼ばれた販売部門の空気が残っていた。新しいことに挑戦していいという気風です。
新人時代の上司だった野萱和夫さん(後にネッツトヨタ仙台社長)は、まさにそんな雰囲気が残る人で、ソフトな人当たりの一方で仕事に対する気概を秘めていました。あるとき、バンパーのリサイクル事業を提案したものの役員会議で否決されてしまった。私は「もはやこれまで」とあきらめていましたが野萱さんはなんと、翌朝に役員の出勤を待ち伏せして直訴しました。リサイクルが社会の要請であり、いかにトヨタに必要なことであるか、熱弁を振るったと聞きました。
その勢いで一度は廃案となったリサイクル事業を実現させた。あきらめない姿勢には感服させられました。
リクルートが発刊した「アントレ」の創刊号でした。そこで紹介されていたのが坂本さん。なぜだろうか。「この人に会ってみたい」という衝動に駆られました。それが私の人生の転機になりました。
(編集委員 杉本貴司が担当します)

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