https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD142CQ0U2A710C2000000
人を笑顔にすることに全力を傾ける原点は自身の過酷な幼少時代にあった。
早朝から働く生活を宗次さんはずっと続けてきた。今は名古屋市中区の繁華街にあるクラシック音楽専用の宗次ホールの周囲や近くの歩道の掃除と、中央分離帯や道路脇に設置した花壇の世話が日課だ。黄色いポロシャツを着て、掃除道具を乗せた台車を押しながら移動し、ごみを拾ったり、花壇に水をやったりする。「夏場は特に水をたっぷりあげないと花が弱ってしまいます」
名古屋市外に自宅があるが、普段は宗次ホールの居住スペースで寝起きする。午前4時前に起床し、2時間ほど掃除や花の世話をした後は、自身が設立したNPO法人イエロー・エンジェルが支援している若者らから来た活動報告や感謝の手紙を読み、返事を書いている。CoCo壱番屋の社長・会長時代、早朝は利用客のアンケートはがきに目を通したりする時間だった。
明かりはろうそくだけ 厳しい生活の少年時代
創業したカレーチェーンを1982年に株式会社化し、社長・会長を経て退任したのが2002年。その後に始めた本格的な社会貢献活動も今年で20年になった。クラシックの演奏会を常時企画する運営や音楽活動などへの支援が高く評価され、日本を代表するフィランソロピストと呼ばれている。
「自分が何かして満足するより、人が喜ぶ姿、笑顔になる姿を見るのが何よりうれしいんです」と宗次さん。過酷な経験をした少年時代から経営者として奮闘していた時期、そして今も、その気持ちは一貫している。
兵庫県内の児童養護施設から、子どものいなかった雑貨商の養父母に引き取られて育った。実父母に会ったことはなく、顔も知らない。やがて養父は競輪にのめり込んで財産を失い、一家で夜逃げをした。その後、けんかが原因で養母は家を出てしまい、日雇い仕事をする養父と2人の暮らしが長かった。

パチンコ屋に落ちているたばこの吸い殻を拾ってくるように言われ、就学前から離れた町のパチンコ屋に通っていた。小学校3年の時、一旦は養母との3人の生活に戻ったが、いさかいが絶えず、また養父と2人の生活に。家賃が払えず追い出され、名古屋市内を転々とした。電気は止められており、明かりはろうそくだった。道ばたに生えている草を取って食べていたこともある。
「はた目にはひどい親でしょうが、唯一の家族だし、父のことは好きでした。喜ぶ顔が見たくて吸い殻拾いを頑張ったんです」。中学ではアルバイトかけもちで生活費を稼いでいた。なんとか高校に進学した直後、養父はがんで他界。養母との生活が始まった。
電気がある暮らしを初めて経験した。養母が勤め先から中古のテレビを安く譲り受けてきた頃、高校の同級生が売りに出したテープレコーダーを1回千円、5回の分割払いで入手した。うれしくてテレビの音楽番組を録音してみた。たまたま流れてきたのが、「メン・コン」の愛称で知られる名曲、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲だった。
冒頭の旋律から引き込まれ、感動で胸がいっぱいになった。何度も何度も再生して聴き込んだ。「それまでクラシック音楽には何の縁もなかった。最初に録音したのがNHK交響楽団の演奏会ではなく、歌番組の歌謡曲だったら、そっちの方に行っていたかもしれない。人生で一、二の出会いでした」
クラシック音楽が好きになり、高校時代の大みそかには紅白歌合戦ではなく、ベートーベンの第九の演奏会を見ていた。卒業して働き始めた後は、レコードを買って聴くようになった。ただ、経営者時代は「何事も徹底してやる、続ける」を信条にして仕事に没頭し、音楽への傾倒を封印していた。
若者を支援するために 3000の楽器を寄贈
役員退任が決まり、出張で飛行機に乗っていた時のこと。音楽サービスで三大テノールの一人、パヴァロッティのオペラを聴いてクラシック熱がよみがえった。音楽CDの総合カタログに載っていた2千枚を超えるクラシック音楽のCDをすべて入手した。宗教音楽以外の曲は、ほぼすべて聴いたという。
郊外にある自宅にゲストと演奏家を招いてホームコンサートを開くようにもなった。ただ、人を招くのには少し不便なのと、妻の直美さんが以前から市の中心部に住んでみたいと言っていたため、繁華街にある約250平方メートルの土地を住宅用に購入した。周囲に荒廃しかけた家屋や店舗があるのが気になり、知り合いの不動産業者にあたってもらう。結局、隣地も4人の地主から購入し、3倍以上に増えた土地にクラシック専用のホールを建てた。
「以前から計画して建てたんじゃないんです。私の人生は偶然の出会いと行き当たりばったり、成り行きの連続です」と宗次さんは笑う。経営から退く時、株式売却で得た利益を直美さんと「これは社会から一時的にお預かりしたお金。社会のために使おう」と話し、頑張っている若者らを支援する活動を始めていた。壱番屋の本社がある愛知県一宮市の中学校の音楽教諭から「一度吹奏楽部の活動を見に来てください」と言われて出向き、古くて傷んだ楽器の多さに驚いて、学校への楽器寄贈を始めた。これまでに寄贈した楽器の数は愛知県内を中心に3千を超える。
バイオリニストの五嶋龍さんへのストラディバリウス貸与で始まった音楽家への名器貸与の数は30以上に拡大した。昨年は東京都調布市の桐朋学園大学に演奏会ができる新たな宗次ホールが完成。構想は以前からあったものの建設が進まないと聞き、学長の案内で初めてキャンパスを訪れた時に建設費の寄付を即決した。「このホールの完成は私の生涯でも特別にうれしい」

コンサートが開かれる時は最後部で耳を傾け、聴衆の様子をうかがう。来客の反応が気になるのは壱番屋の時と変わらない。心を込めること。そして感謝する気持ち。心構えは一緒だ。
「笑顔で迎え、こころで拍手、です」
【My Charge】妻とをつないだレコード今も 二人三脚の人生を物語る

CoCo壱番屋のカレーの原点は直美さんが喫茶店時代に作っていたカレーだ。カレー専門店の開業から多店舗展開まで、仕事はすべて2人で相談しながら進めてきた。事業を大きくした貢献度の割合を聞かれると、「妻が8割、9割です」と答えている。
2つの宗次ホール建設や名器の購入、楽器の寄贈、多方面の個人・団体への支援に投じた私財は累計数十億円にのぼるとみられるが、「一度も反対されたことがない」。だが、「以前、退任後は夫婦漫才風に全国を一緒に講演して回ろうかと誘ったら、『あなた1人でやって』と言われました」と笑う。
宗次ホールの事務所の棚には、宗次さんが理事長を務め、社会貢献活動を推進するイエロー・エンジェルが支援する学校や団体のファイルがびっしりと並んでいる。中には寄付を受けて進めた事業の報告書やお礼の手紙などが入っている(写真下)。「寄贈いただいた楽器は今までのものとまるで違う音が出て驚いています」「いつも助かっています。恩返しできるよう、一生懸命練習します」。こうした手紙が毎日のように届く。「先生や生徒の代表が書いた手紙が多いですが、子どもが一人ひとり書いてきたものもあって、返事を書くのに時間がかかります」

支援の求めはあちこちから来る。もちろんすべてには応えられないが、要請が来ること自体はうれしいという。「少額でも私が使うより、何倍も価値のあることができます。皆ができる範囲で助け合う、支え合う社会になったらいいといつも思っているんです」
堀田昇吾
中尾悠希撮影

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