三菱地所レジデンス社長 宮島正治氏(下) 厳しい地主、設計案白紙に

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO63320610Z00C22A8TB1000

  ■東京の閑静な土地を巡り、マンションの設計案に難色を示す地主と向き合う。

 

1999年、東京本社で住宅の企画開発を担う部署の課長級になりました。マンション開発の提案で、「住まいのあり方」に一家言のある地主の方々から叱咤(しった)激励を受けます。評価額だけでなく、地域に愛されるかどうかの視点で厳しさを学びました。

代表例が東京都品川区での開発案件です。海外生活の長い海運業の地主の土地で、三菱地所の提案は渋られていました。部長から「付き合ってこい」と言われ、設計士と一緒に途中からプレゼンに加わりました。

地主の土地に住宅を建てる事業は「等価交換方式」で、土地の評価額が高くなる開発ほど良いとされます。提案は洋館風の10階建ての大型マンション。バブル崩壊後も首都圏は実需があり、高効率の画一的な物件開発が主流でした。

しかし、地主の男性は「違うんだよな」と一言。プレゼンの最後に「これで良いと思うか」と聞かれ、私は「面白くないので企画を変えます」と答えました。

  ■地域になじむ建物の設計を考え抜き、戸数を半分にする。

ロンドンの設計事務所と1年かけ、プランを刷新しました。土地は江戸時代から大名屋敷などのあった「城南五山」の一つ、島津山の高低差のある閑静な地でした。地主は「地域になじむように」との思いが強く、10階建ての提案を白紙に。勾配を生かして周辺に融合するような設計とし、7階建てで戸数は当初案の半分の25戸にしました。

他の社員のいない早朝、部長と何度も事業収支や内容を議論し、助言をもらいます。1戸平均の価格が上がるため、販売部門の意見も入念に聞きました。北海道での撤退案件の学びを生かし、常にすべての関係者と方向性を確認しました。

  ■付加価値は対話から生まれる。

2001年に完成し、海外生活が長い方などの人気を得ました。コモディティー化の時代に新たなニーズを学ぶ貴重な機会でした。

東京都中野区でも部下がコンペで当選した15階建ての計画案を一緒に見直しました。地主の胸の内を聞き、近隣になじむ外観の9階建てに変更。評価額が高いプランは喜ばれますが、地主は新しい物件に住むことも多く、地域に愛される開発を求めています。

いま、対面で話す大切さをより強く感じます。毎朝午前8時に社長室のドアを開け、社員の相談を聞き、助言しています。入居者、地主、近隣住民にとって心地よい住まいを追求するには多様な声に耳を傾けることが欠かせません。

〈あのころ〉 2000年前後から、マンションはバブル末期の投機的な需要から実需に変わった。首都圏の価格はピーク時から半値近くまで下がったが、00年の発売戸数はバブル期の2倍超の10万戸に迫った。不動産各社は工場跡地などで次々と大型物件を開発し、大量供給の時代になった。