タイに学ばぬミャンマー軍政、暴力でかすむ「出口戦略」

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「すべての加盟国が深く失望した」。3日にプノンペンで開いた東南アジア諸国連合(ASEAN)の外相会議の冒頭、あいさつに立った議長国カンボジアのフン・セン首相は、その場にいないミャンマーに不満をぶちまけた。

昨年2月のクーデター後、市民弾圧をやめないミャンマー国軍。事態収拾を目指すASEANと暴力の即時停止など5項目に合意したものの、一向に約束を守らず、主要会議から排除されている。7月末、今度は民主派の政治犯4人に死刑を執行したことが明らかになった。執行承認が伝わって以来、制止する声が相次いでいたにもかかわらず、だ。

フン・セン氏もその一人だった。「平和的な解決を探る努力に壊滅的な影響を与える」とミンアウンフライン総司令官に自重を促す書簡を送ったが、無視された。執行したタイミングは、議長特使として腹心のプラク・ソコン副首相兼外相をミャンマーに再派遣した直後であり、ASEAN地域フォーラム(ARF)など域外国も招く一連の外相会合が開幕する直前だった。

カンボジア自身、かつてポル・ポト派が反体制派の虐殺に乱用した苦い経験から1989年に死刑制度を廃止し、93年制定の憲法でも禁じた。フン・セン氏はASEAN議長の顔に泥を塗られただけでなく、カンボジア首相としても神経を逆なでされた。

「国軍がASEANとの合意を繰り返し破ってきたなかでも、最も受け入れがたい野蛮な行為」(米戦略国際問題研究所の国際関係部門長、リナ・アレクサンドラ氏)といった非難が殺到する。もちろん蛮行は許しがたいが、すでに2100人超が司法手続きすら経ず銃撃や拷問で殺害されてきたことを考えれば、やや過剰反応のきらいもある。

理由のひとつは、犠牲者の知名度の高さか。ピョーゼヤートー元下院議員はかつてミャンマーのヒットチャート1位に輝いたこともある人気ミュージシャンで、アウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)の党中央委員として国連など国際機関との折衝役を担っていた。通称「ジミー」で知られる民主活動家チョーミンユ氏は、88年の大規模な民主化デモを先導した「88世代学生グループ」のリーダーの一人だった。

もうひとつは、不意打ちの衝撃だろう。ミャンマーでは死刑判決が出ても減刑されるのが通例で、極刑の執行は90年、政治犯に限れば76年を最後に半世紀近く途絶えていた。政変以降、これまで117人に死刑判決が下されているが、筆者自身を含めて、まさか執行はないだろうと思い込んでいた面がある。

そう決めつけていたのは、民主派への見せしめの効果と、予想される国内外からの非難の大きさが、とても釣り合わないと思えたからだ。なぜあえて執行したのか。「ミャンマー国軍は暴力による威圧しかできない組織。彼らにとっていまは戦時で、なおさら他のことが見えなくなっている」と京都大の中西嘉宏准教授は指摘する。

死刑執行は国軍が掲げる2023年8月の総選挙までちょうど1年のタイミングにも重なった。民主派は報復を宣言し、治安情勢の一段の悪化は確実だ。総選挙に向けたハードルを自ら上げた点からも、視野狭窄(きょうさく)と言わざるを得ない。

国軍はクーデターの理由として、NLDが圧勝した20年11月の総選挙には有権者名簿などに膨大な不正があり、公正に選挙をやり直すためだ、と言い募ってきた。普通に戦ってはNLDには歯が立たない。だからスーチー氏を汚職罪などに追い込んで排除し、国軍直系の連邦団結発展党(USDP)に有利なよう選挙制度を作り替え、形ばかりの「民政復帰」を果たして国軍の実質支配を続行する、というシナリオを描いた。

文民政権を力ずくで引きずり下ろした軍が、仕組みを恣意的にねじ曲げた選挙を経て、政治権力への居座りを正当化する。ミャンマー国軍がお手本にしたのは、間違いなく隣国のタイであろう。陸軍司令官として14年のクーデターを主導したプラユット氏は、19年の総選挙を挟んで、すでに8年も首相の座にとどまっている。

タイ下院選は小選挙区・比例代表制を採用しているが、タクシン元首相派のタイ貢献党の復権を阻むため、国軍は小選挙区に強い党には比例代表の議席が配分されにくい、複雑な選挙制度を導入した。加えて国会での首相指名選挙に、民選の下院議員だけでなく、国軍が任命する上院議員も加わる仕組みを取り入れた。下院選ではタイ貢献党が第1党となったのに、プラユット氏が首相を続けられているのは、そうしたからくりの産物だ。

ミャンマーの場合、従来の小選挙区制から比例代表制への変更がそれに該当する。20年11月の総選挙の議席獲得率はNLDの83%に対し、USDPはたったの7%だった。ところが得票率でみれば68%対22%へ差が縮まる。死票が多い小選挙区制をやめ、得票率が議席数に直結する比例代表制へ移行すれば、USDPの議席を上積みできると考えた。

何もNLDを上回る必要はない。ミャンマーの国家元首の大統領は、タイの首相と同様に国会議員の投票で選ぶ。国会の25%はもともと非民選の軍人議席であるため、民選議席の33%超をとれば、合計で議会の過半を握れる。前回選挙の得票率22%とはなお開きがあるものの、国軍支配下の選挙では不正や脅迫、小政党の抱き込みなど「何でもあり」だろう。これがミンアウンフライン氏が自ら大統領になる段取りである。

ただし、先行するタイとは決定的な違いが生じている。クーデター後の武力弾圧の有無である。

政治犯の死刑執行を受けて、タイ紙カオソッドが「はるかに目に見えて冷酷で残忍なビルマ(ミャンマー)軍政と比較して、プラユット政権は弾圧を相対的にうまくごまかすことができた」と論評したように、タイ軍政は戒厳令や不敬罪を用いた弾圧こそあったものの、あからさまな流血の事態は引き起こさなかった。19年の総選挙が大きな混乱なく実施され、その結果を受けて続投したプラユット政権を国際社会が受け入れたのは、「静かなクーデター」であればこそだった。

翻ってミャンマー国軍は、当初こそ反対デモを静観していたが、ほどなく苛烈な武力行使に走り、1年半が経過したいまも続く。「サルに見せつけるためニワトリを殺している」。タイの国軍関係者は自国のことわざを引きながら「我々と違い、ミャンマー国軍は暴力で権威を誇示するという、昔からの発想を抜け出せない」と指摘する。

報いとして市民の憎悪は膨らみ続ける。1年後に本当に選挙はできるのか、実施しても有権者は投票するか、結果を国際社会が認めるのか、といった疑問は積み上がるばかりだ。欧米はもとより、現状ではASEANすらも選挙結果を受け入れないだろう。選挙を通じた権力の正当化は、いったい誰に向けてのものか。壮大な自己満足である。

一方、選挙のボイコットを公言するNLDも、ジレンマを抱える。タイの事例を解き明かせば、クーデターで政権から追われたタクシン派が、民政復帰と称しながら実情は軍政温存のためであった総選挙に参加したのは、曲がりなりにも議会を復活させ、その中で発言力を得ることが、事態を動かす唯一の道と考えたからだ。NLDが選挙を拒絶し、武装抵抗に加担しても、国軍支配を覆す道筋は見えてはこない。

国軍が選挙を強行しても、民主派がそれを拒んでも、行き着く先は袋小路である。暴力が暴力を呼ぶ負の連鎖のなかで、双方とも出口戦略がかすむ現状が、ミャンマー情勢の深刻さを浮かび上がらせている。

=随時掲載

高橋徹(たかはし・とおる) 1992年日本経済新聞社入社。自動車や通信、ゼネコン・不動産、エネルギー、商社、電機などの産業取材を担当した後、2010年から15年はバンコク支局長、19年から22年3月まではアジア総局長としてタイに計8年間駐在した。論説委員を兼務している。著書「タイ 混迷からの脱出」で16年度の大平正芳記念特別賞受賞。