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三菱地所レジデンス社長 宮島正治氏(上) リゾート撤退、つらい調整

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO63134780S2A800C2TB1000

 

三菱地所は「丸の内の大家」といわれます。ただ私は大学時代、ヨット部の合宿所があった横浜周辺を訪れるなかで、新たな街をつくる企業の印象を抱きました。造船所や鉄道の操車場があった地で、超高層ビルや観光スポットを計画。就職活動では銀行や商社も受けましたが「自分も歴史に形が残る開発をしたい」との思いが勝りました。

1987年に入社後、マンション開発の「第一住宅部」に配属されました。右も左も分からぬまま、反対運動の対応に明け暮れて、地元住民の自宅や企業を訪れる日々。不満や要望をひたすら聞き、改善策を練ります。1年半ほどかかって許可を得て、開発の大変さや意義を実感しました。

  ■北の大地でリゾート開発に携わる。

94年春に札幌支店に赴任します。課長代理としてマンション開発を主に担当しつつ、地元企業との複合リゾートの共同開発について、現場社員を支援する仕事も任されました。

バブル経済がはじけたものの、まだ札幌市内のマンション価格は上昇し、販売も好調でした。リゾート開発は北海道が保有し、新千歳空港にほど近い300ヘクタール超の土地にゴルフ場やホテル、別荘をつくる構想。現場社員は自治体や農協などと協議し「夢のようなリゾート」の実現に汗をかいていました。

「こんな広大な土地の開発を止めるわけがない」という雰囲気でしたが、96年に入り、バブル崩壊の危うさも漂います。東京本社に方針を確認すると、「リゾート開発は基本的に進める」との姿勢。スピードや規模を縮小しつつ、やり遂げようと考えました。

  ■北海道拓殖銀行の破綻で状況が一変し、開発撤退に奔走する。

ところが97年に拓銀の倒産が伝わると、東京本社から一転して「開発を止めろ」との指示がありました。多額の投資事業の傷口が広がらないための判断ですが、社員は事務所に寝泊まりしながら何年も交渉してきた仕事です。撤退に対し、「私の青春を返せ」と納得できない社員もいました。

私は現場に「開発を続けて投資資金を回収できるのか」と粘り強く理解を求める一方、本社には「道路工事など約束した仕事は止められない」と提言。両者の立場や考えを丁寧に聞き取り、時間をかけて何とか撤退の道筋をつけました。

撤退の調整役はつらいです。しかしプロジェクトのすべての関係者と丁寧に情報を共有し、互いに目指す「道しるべ」の確認の大切さを学びました。この経験が後の東京での困難なマンション開発に生きます。

 みやじま・まさはる 87年(昭62年)慶大法卒、三菱地所入社。住宅分野が長く、16年に三菱地所レジデンス取締役専務執行役員。20年から現職。東京都出身。

〈あのころ〉 バブル崩壊後、全国でリゾート施設の経営破綻が相次いだ。1994年に全面開業した「シーガイア」(宮崎市)は利用が低迷し、2001年に運営会社が会社更生法の適用を申請。初期投資が重く、「ハウステンボス」(長崎県佐世保市)や各ゴルフ場の経営も二転三転した。