https://www.nikkei.com/article/DGKKZO63079680R00C22A8TEC000/
米アップルは自動車を造ると明言していないが、特許を着々と蓄積している。「iPhone」をはじめとする革新的な製品を世に送り出し、人々の暮らしを一変させた魔法の力は健在か。同社の出願特許を読み解くと、乗り心地に配慮した「酔わない車」の開発や、モビリティーの未来の形が浮かんでくる。
米特許商標庁は5月、新たに車に関連するアップルの特許を公開した。「動きと同期した仮想コンテンツの没入型ディスプレー」というタイトルのその特許に記されているのは、未来の乗車体験の一端だ。見慣れた道を走行しながら、異世界のドライブを味わえる。
生産性高める
ある時は警察官や逃走者の気分になってカーチェイスを繰り広げ、またある時は迫り来るゾンビを振り切るために荒野を疾走する。遠く離れたロンドンの市街地や架空の都市で優雅に車を走らせることも可能だ。歴史的な建造物を眺めながら、教養のための時間にあてることもできる。
これらの疑似体験を実現するのは、仮想現実(VR)のコントローラーや3次元の映像を表示するヘッドマウントディスプレー(HMD)などのシステムだ。窓から景色を眺め、ラジオや音楽を聴いていた車内の時間の過ごし方に「仮想世界に身を置く」という選択肢が加わるかもしれない。
娯楽や教育のコンテンツにとどまらない。特許では「没入型のVR体験は乗車中の生産性を高めるために使われる」との想定も示した。アバター(分身)を通じたバーチャル会議への出席など、移動時間に仕事をこなせる。車内にいながらオフィスや自宅にいる参加者と同じ空間も共有できる。
2021年に旧フェイスブックがメタに社名を変更したことが象徴するように、米テック業界を中心に仮想空間「メタバース」への関心が高まっている。現実と仮想を融合したクロスリアリティー(XR)がデジタル社会を新たな段階に導くとの期待も大きい。
アップルもVRや拡張現実(AR)に早くから着目していた。15年に高度なAR技術をもつ独メタイオを買収し、知見を蓄積してきた。知財分析を手掛ける知財ランドスケープの山内明最高経営責任者(CEO)は「アップルはXRを自動運転時代に有効な技術と捉えている」とみる。
山内氏が他社からの引用の多さなどをもとに「注目特許」にあげるのが、ARを用いたディスプレーだ。建物や地形に隠れた道路をフロントガラスに映し出すといったことを可能にする。メタイオの出身者らが重要な役割を果たし、競争力の高い技術を生み出しているとみられる。
バーチャル会議などを実現する没入型のVRシステムも注目技術の一つだが、導入時にネックとなるのが「酔い」だ。移動中の車内でVR技術を利用すれば視覚と身体の感覚がずれ、車酔いする可能性がある。アップルも特許の説明でその課題に言及している。
対策の鍵は特許のタイトルにある「動きと同期した(モーションシンクロナイズド)」という言葉にありそうだ。車の加減速と仮想空間での体験が連動する仕組みを取り入れるなどして、車酔いを軽減するとみられる。バーチャル世界に自然に滞在できるようにする狙いだ。
他の注目特許としては、高速道路の合流などを担う自動運転車向けの意思決定システムなどがある。XRや人工知能(AI)などデジタル分野の技術をアップルが手がけることに意外感はないが、見逃せないのは「車ならでは」の技術にも力を注いできた点だ。そこでも車酔いの克服は大きな柱となっている。
代表例が17年に出願された「モーションコントロール・シートシステム」というタイトルの特許だ。米特許商標庁のサイトで調べると、路面状況に応じて衝撃を緩和する「アクティブサスペンション」と連動してシートを制御し、振動などを抑えて乗員の不快感を取り除く仕組みのようだ。
説明には「移動中の車内で読書やスクリーンデバイスでの作業、映画鑑賞をしている車両乗員の車酔いを低減できる」とある。知財ランドスケープの山内氏はこの技術について「移動時間・空間をより快適に過ごすためのキラーテクノロジー」との見方を示す。
サスペンションの特許などでも車酔い対策に言及しており、アップルが究極の「酔わない車」を追求してきたことがうかがえる。iPhoneで携帯電話に新たな命を吹き込み、情報の取得やコミュニケーションの形を一変させたように、クルマの常識や移動の概念を変える可能性を秘める。
ユーザー視点
窓やミラーを介して差し込む太陽光のまぶしさを低減する技術、お年寄りや子供も乗り降りしやすそうな停車時に車高が低くなる機構、乗員の体感温度を最適にする環境制御――。数多くの特許から垣間見えるのは、利用者を様々な困り事から解放する新しい「ユーザーエクスペリエンス(UX)」を追求する姿勢だ。
使いやすさ、快適さの実現はアップルの神髄ともいえる。iPhoneやパソコンの「Mac」は難解な説明書を読まなくても簡単に扱えるシンプルさが売りだ。タッチ操作による入力など直感的で手軽な「ユーザーインターフェース(UI)」を重視してきた。
その思想は車の開発にも反映されているようだ。特許にはジェスチャーによって追い越しや車線変更を操作したり、駐車場で「あそこに止めて」と言葉で指示したりする技術なども含まれる。独創的なインターフェースは「アップルらしさ」を感じさせる要素だ。
もう一つの特徴として知財ランドスケープの山内氏は「デザインへのこだわり」を挙げる。ミラーや窓、内装に関する特許も多く、優れた工業デザイナーを抱えて開発体制を敷いていることがうかがえる。洗練されたデザインで消費者を魅了してきたアップルの強みは車にも生きるのか、大きな注目点だ。
もっとも、これらの特許を同社がどう扱うかは不明だ。アップルは14年からiPhoneと車を連携させる機能「カープレー」を展開するが、自ら車を造るとは公言していない。ティム・クックCEOは17年に自動運転技術を開発していることを認めたことがあるものの、本格参入には懐疑的な見方もある。
アップルがiPhoneで生みだしたスマートフォン市場は成熟しつつあり、同社には「次の革新」を求める声が絶えずつきまとう。
「One more thing……(それから、もうひとつ)」。アップル創業者の故スティーブ・ジョブズ氏はとっておきの商品を披露する際に好んで口にした。クック氏が再びこのフレーズを発する日は来るのか。特許からはモビリティー革新に向けたアップルの熱量が感じられる。


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