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大和ハウス・芳井敬一社長 勲章は母からもらった腕時計

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGH191SF0Z10C22A6000000

 

大阪市天王寺区で生まれ、同生野区で育った。家業は2トントラック10台ほどを使う運送会社。近くに家電メーカーの配送センターがあり、そこが大のお得意様だ。自宅の家電製品はそのメーカー一色だった。時間があると、電器店に商品を届けるトラックに同乗し積み下ろしを手伝った。父はドライバーが全員戻ってくるのを確認してから帰宅する。父が席に着くまで私たち家族は食事に手を付けなかった。

地元の公立小中学校に通った。割と成績は良い方だったが中学3年の1学期に相撲をしていて足を骨折、40日間入院した。退院して学校に戻ると、入試に出る三角形の相似やイオン化傾向が皆目分からず、授業について行けない。内申書も悪くなり、志望高校への進学は難しくなった。

目標を変え、大阪府立大和川高校(現大阪府教育センター付属高校)を志願した。なぜかその年は受験生が殺到、新聞が取り上げるほどの難関に。母は「公立に受かれば好きな腕時計を買ってあげる」と言った。父は「努力する姿勢が大切(中略)たとえその高校に入れなくても人生行路はりっぱにすすんで行ける」と書いた手紙を私に渡した。

両親は不合格も覚悟していたが、親が子を思う強い気持ちにも支えられて合格した。商店街の時計店で店主お薦めのスイス製「ラドー」の自動巻き腕時計を買ってもらった。大学時代も使っていたが、その後、動かなくなっていた。

15年前に母が心臓病で大阪警察病院(天王寺区)に入院した際、「この腕時計を修理すれば母も良くなるのではないか」と思い、古いパーツを取り置いている修理店に持ち込んだ。年配の店主はにっこり笑い、受け取った。戻ってきた腕時計は傷だらけの風防ガラスと古いベルトも交換し、ちゃんと動く。機械式は頑丈だ。うれしいことに母も退院できた。

一時期、米国ブランドの「タイメックス」なども含め30本近い腕時計を持っていたが、モノへの執着が薄いのでほとんど知人にあげてしまった。ただ、母に買ってもらった「ラドー」だけは手元に残してある。私の大切な勲章だ。コロナ禍の前に母は亡くなり、「ラドー」もまた動かなくなった。修理店の店主は代替わりしたが、店は同じ場所で続いている。近く修理に出そうと思う。

高校で始めたラグビー

小学校時代は野球少年だった。大阪府立大和川高校(現大阪府教育センター付属高校)でも野球をやろうとしたが野球部自体がない。中学にラグビー部があり、なじみもあったことからラグビー部に入った。監督は着任したばかりの進藤恵三先生。大和川高校の4期生で私たちとは8歳違い。1年生部員は先生が大好きだった。1年生から試合に出た。強豪相手だと試合後半で足が止まる。下位チームとの対戦で1試合3~4本のトライを稼いだ。公式戦トライ数は当時の大和川高校で一番多かった。

練習は月曜~金曜まで毎日、土日は試合。先生も1年目だから力が入っており厳しかった。練習に行きたくなくて1回だけ「商店街のくじ引きで旅行が当たった」と言ってサボった。先輩が「商店街の旅行なんてない」と暴露し、噓はすぐばれた。高校の仲間で集まるといまだに「商店街の…」とネタにされる。

進路相談すると、先生は「ラグビーなら体育系の大学に入れる」と言った。関西の大学を希望したが、「関東でやっていけるのはおまえだけだ」という殺し文句で中央大学へのスポーツ推薦が決まった。身長170センチ、体重60キロと小柄だが100メートル11秒後半の足が武器だった。

ポジションは右ウイング。左右計10人で2つの出場枠を争った。1年の時は故障で出られなかった。2年は公式戦メンバーに入ったが紅白戦で足を痛めて外され、3年の途中から試合に出るようになった。4年は夏合宿で肩を脱臼して開幕に間に合わず、最後の2試合だけ出場した。

父の希望もあり、大学卒業後は小学校の先生になるつもりだった。久保優監督は「社会人で通用するには厳しいぞ」と言った。だがケガで不完全燃焼したという思いがくすぶる。1981年、神戸製鋼所子会社の神鋼海運(現神鋼物流)に入社し、神鋼の社会人チームでもう一度ラグビーを始めた。定時までは人事部で働き、ソロバンをはじき、カーボン紙をはさんだ書類を手書きした。練習はその後。私は平尾誠二さんたちが黄金時代を築く前のメンバーだが、神鋼ラグビー部OBということで随分と得をした。