安倍時代、SNSと並走 民主主義に「分断」の影 単純な二元論陥りやすく

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO62586290T10C22A7CT0000/

 

社会の「分断」にもつながりかねないこの潮流にどうあらがうか、大きな宿題が残されている。

第1次安倍内閣の発足は2006年。ツイッターの創業や、フェイスブックが一般に開放されたのと同じ年だ。通算8年8カ月もの長期政権は、SNSの勃興と強くシンクロするタイミングで続いた。

SNSは急速に普及した。とりわけ11年の東日本大震災では、携帯電話の通話に制限がかかる中、ツイッターを使った情報交換が活発化。自治体のホームページがダウンしても、ツイッターで発信を続けられたケースも多かった。

15年12月時点での日本のツイッター利用者の増加率は世界トップに。政治家もこぞって使い、安倍氏自身もさまざまなつぶやきを発信した。トランプ前米大統領もツイッターを駆使し、親密な関係を築いた安倍氏とのやりとりも話題になった。

一方、個人が自由に発信できるSNSではむき出しの感情がそのまま表に出た。見たい情報が優先的に表示される「フィルターバブル」、自分と同じ意見が返ってきやすい「エコーチェンバー」といった特性も、異なる立場の間の議論を深めるよりも単純な好き嫌いといった二元論につながった。

要は使い方次第なのだが、未体験の新しいツールに、社会は明らかに免疫がなかった。SNSの普及と並走する形で長く政権の座にあったことで、安倍内閣は人々の好き嫌いがはっきり分かれた印象を強くもたれた。それが結果的に、強調された対立のイメージを多くの人に与えた可能性がある。

バブル後の「失われた10年」は、いつの間にか20年になり、30年となった。それが際限なく延びるのではという閉塞感が、社会にこびりついてゆく。格差も広がり、他者への想像力は衰え、敵意のハードルが下がる――。平成半ばから令和にかけては、そんな世相を思わせる事件も相次いだ。

08年の秋葉原連続殺傷事件では、職を転々とする男が社会への不満を募らせて無差別の凶行に及んだ。19年の京都アニメーション事件では会社への怨恨を理由に36人もの死者を出す放火殺人が引き起こされた。

警察庁の昨年の調査では、ここ10年の日本の治安を「悪くなった」「どちらかといえば悪くなったと思う」と答えた人は計64%に上った。不寛容のムードを身近に感じる人が増えているのだ。

戦前の政治テロは、異なる立場の人間を排除し自らの思想を押し通そうとするもので、民主主義への直接的な挑戦だった。今回の事件では政治的背景は今のところ見当たらない。だが、一個人が情報を集めて銃器を作り、遊説中の元首相を射殺するという衝撃的な展開は、民主主義への脅威に直結する。同じことを許してはならない。

相互理解を拒む分断の影は、油断すればこれからの世の中を覆いかねない。それは熟議に基づく民主主義とは対極の姿だ。SNSと上手に付き合い、独善的なたこつぼにはまり込まず、お互いを認め合う。ネット、リアルを問わず、一人ひとりの振る舞いが問われよう。

日本社会をよりよくして次世代に引き継げるのか。「安倍氏の時代」が私たちに示した宿題だろう。