30歳の時、マイカーで帰宅途中に追突され、人生最大の大けがを負った。5時間の大手術を受け、8カ月の入院生活を送った。こちらの過失はゼロ。新車を弁償された。クルマは大好きだが、さすがに怖くて乗れない。すぐ手放した。
事故で人生観が変わった。格好良さばかりを気にしている自分を転職で鍛え直したかった。数社から内定をもらった。公認会計士をしているいとこの事務所に出入りしていた大和ハウス工業社員が私のことを聞きつけ、「そんな人間はウチやろ」と言って面接の段取りを整えた。
人事部で面接を受けていると、お茶を運んでくれた人は立命館大学ラグビー部のOB。横から履歴書を見るなり「採るべし」で即決。次はいきなり「いつから来るか決めてくれ」である。3カ月間待ってもらい、2週間のアルバイトを経て1990年6月、私は大和ハウス工業社員となった。
大阪本店の建築事業部で営業を少し勉強すると上司は「ビル、工場、倉庫の仕事をとってこい」と告げた。大半の業種は先輩が手を付けており、未開拓はスーパーと運輸業ぐらい。実家は運送会社を営んでいた。ある鉄道系運輸会社に親近感を覚え、大阪支社に飛び込んだ。気に入られて約5000万円で大阪市東淀川区の駐車場工事を受注した。ほぼ初仕事だった。
系列の建設会社もあるのに、大和ハウス工業はどれだけ多くの仕事を頂戴したか分からない。あるとき、提案内容でしくじって出入り禁止になった。会社に朝駆けして許しを得ると、目の前で本社に電話をかけ「今から行かせるから契約の判を押してやれ」とまで言ってもらった。
32年前、最初に飛び込んだ大阪支社の立地を見て「スーパーに向いている」と直感した。昨年、その大阪支社をスーパーに建て替える工事を受注した。私の仕事の原点はここにある。地鎮祭でくわ入れした盛り砂の一部と現場の土を3本の瓶に詰めた。2本は関係者に贈り、1本は私が大切に保管している。同僚、後輩の頑張りもあり、付き合いは続いている。この運輸会社関連の地鎮祭と竣工式は全部必ず出席してきた。今後もそれは変わらない。

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