丸山茂雄(9) 香港生活 仕事も遊びも混沌を満喫 東京への帰路が新婚旅行に

2年間の仙台勤務のあとは香港駐在となる辞令が出た。ソニー(現ソニーグループ)と米CBSの合弁契約では日本と極東地域がCBS・ソニーレコードの管轄になっていた。唯一の海外拠点が香港。日本からレコードを輸入して現地で売るのが仕事だ。

 

転勤の話をすると、仙台のレコード店の店主から「結婚したほうがいい」と勧められた。海外で遊びほうけて身を持ち崩してはいけない。そう心配してくれたのだ。

なるほど、結婚相手は決めておいたほうがいい。私は母に電話しお見合いをセットしてくれるよう頼んだ。高校時代から小説を読みまくった結果、どろどろの愛欲リスクがある恋愛は面倒、見合い結婚がいいと思っていた。

お見合いは自己紹介のプレゼンだ。私は「医者の息子なのに、なぜ医者にならなかったのか」を説明するくだりに神経を使った。医者の息子は医者になるのが当たり前の時代で、きっと相手もそこを気にする。単に私の成績が悪かったからなのだが、そこは上手に、たいした問題じゃないですよの体で話した。

3週間で10人に会った。プレゼンを繰り返すうち「きっと相手はここで笑うだろうな」と展開が読めるようになった。途中から誰が誰だか混乱してきた。もちろん、どのお嬢さんもいい。みんな95点くらい。結局、これぞという縁に巡り合えぬまま、香港に旅立った。1970年だ。

当時の香港には混沌とした世界が残っていた。街の中心部にはまともなレコード店がある一方、現地の人が行くような店では正規品と並んで海賊版が堂々と売られていた。

だが、この問題はほどなく解決する。販売代理店として手を組んだ中国人が賢い人で、海賊版をつくる張本人を営業担当者として採用した。するとCBS・ソニーのレコードに限っては海賊版が出回らなくなった。

そんなおかげもあって1年目の仕事は順調だった。会社全体の売り上げの5%くらいを香港で稼いだと思う。

しかし、2年目になると日本の事業が急拡大し、香港の比率は1%を切る。日本からの支援も減った。「香港はもう期待されていないんだな」と感じた私は遊びの方向へ舵(かじ)を切った。

仲間と共同で中古のヨットを手に入れ、週末には海に出た。ゴルフ、テニス、ボウリングもやった。

そしてラグビーだ。香港にはリーグ戦があり、私は市民チームのひとつ「ロイヤル香港フットボールクラブ」に入った。ひたすら練習という日本とは違い、香港では試合のために若干の練習をする。かつて経験のないラグビー文化に触れることができた。

2年弱の香港生活の締めくくりは結婚だ。相手は友人の友人だった正子。ヨーロッパ旅行の帰り、彼女が香港に立ち寄ったときに紹介された。2人は絶対に相性がいいと友人に言われ、その気になった。日本と香港に離ればなれだから、結婚までに会ったのは5回。恋愛期間があったような、なかったような……。

あと4、5日で帰任という日、香港で式を挙げた。入社後すぐ仙台、香港と赴任し、東京には会社の知り合いがほとんどいない。だったら友人知人が大勢いる香港でやろうと。帰国する挨拶もできる。

そして東京に戻る旅が、そのまま新婚旅行になった。

(ソニー・ミュージックエンタテインメント元社長)