丸山茂雄(7) 就職 広告会社で営業力鍛える 3年目に音楽業界へ飛びこむ

1966年、私は広告業界で社会人のスタートを切った。本当は生命保険会社に入るはずだった。大学のゼミの先生が保険業界に顔がきいたからだ。ところが採用面接でちょっとしたことから担当者と口論になり、けんか別れになってしまった。

 

入社したのは読売広告社だ。父が当時の社長と友達だった。なんだコネ入社かと言われそうだが、そこには私なりの覚悟も込められている。

思ったほど頭がよくないと知り、私は医者の道を断念した。何事にも集中できず、甘えた態度のままじゃ、この先の人生が危うい。自分を変えるため、おっかない社長のいる会社で、でっち奉公のように働くのも悪くない。そう考えた。読売広告社の社長がまさにおっかない人だった。

私は新宿支社に配属された。支社長の久保寺保朗さんもまた厳しい人で、「そもそも営業っていうのはな」と私が望んだ通り鍛えてくれた。

読売広告社の主要な取引先は読売新聞社だ。私の主たる任務は、新聞に載せる求人と不動産の三行広告の注文をとること。右も左もわからない新人ということもあるが、上司の言うことを素直に聞き、どぶ板営業に励んだ。東京五輪のあとの不景気のころだ。社会人としてのイロハのイくらいは身についた気がする。

営業先は世にあまたある中小企業。どの産業をねらうか。私は新聞や雑誌の情報をもとに独自のデータベースをつくることにした。これはという記事を切り抜いて台紙に貼っていく。平日は営業があるから、作業は土曜日の午後と日曜日だ。インクで手が真っ黒になる地味な取り組みを1年半、続けた。結構、役に立つものができた。

68年のことだ。仕事で製版所に行くと、よその広告会社を通じてソニー(現ソニーグループ)が朝日新聞に出した広告が目にとまった。CBS・ソニーレコード(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)という会社を設立し、社員を募集するらしい。

こういう広告は読売新聞にもほしいと思い、ソニーと交渉したが、けんもほろろ。このころ朝日は山の手、読売は下町のイメージで、読売向きの求人広告は左官、電気工など庶民的な匂いが漂うものが定番だった。

広告はとれなかったものの、その新しくできるという会社に私自身が引き寄せられた。年齢、学校の成績は不問というのもいい。社会人3年目、転職を決めた。

CBS・ソニーは大賀典雄さん(のちにソニー社長)が事実上のトップだった。一期生となる同期入社は確か50~60人。私は広告だが、ほかには証券、ゼネコン、製薬などの出身者がいた。音楽とは無縁そうな素人集団になったのにはわけがある。新会社は50%が米国資本。通商産業省(現経済産業省)は同業のレコード会社から人材を引き抜かないようソニーに指示していたのだ。

だが、これが強みになる。業界の慣習や前例にとらわれずに行動するパワーが組織に生まれた。大賀さんもそこに気づいたと思う。ソニー・ミュージックではその後、いろいろなグループ会社ができるが、まずは素人を集め、段階的にプロを加える手法がよくとられた。戦闘力の高い集団をつくるコツかもしれない。

思いがけず飛び込んだ音楽の世界。舞台は東京から仙台に移る。

(ソニー・ミュージックエンタテインメント元社長)