「学校」の存在意義 自由を尊重、経験積む場に 苫野一徳・熊本大学准教授

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO62288790U2A700C2CK8000/

 

情報通信端末を使った遠隔学習・個別学習が広がり、不登校も増える中で、「学校でしか学べないこと」とは何か。教育学者の苫野一徳・熊本大学准教授に寄稿してもらった。

 

なぜ、私たちは学校に行く必要があるのか? そもそも本当に行く必要などあるのだろうか? 新型コロナウイルス禍が始まって以来、この問いはかつてないリアリティーをもって日本社会に広がりつつある。

最長3カ月にも及んだ一斉休校は、学校の存在意義を改めて考え直させるきっかけになった。一方で、1人1台の端末整備を実現させた「GIGAスクール構想」は、テクノロジーを駆使すれば、学校に行かずとも教育の機会を十分に整えることができるのではないかという議論を喚起した。

さらに今年1月には、デジタル庁がまとめた「教育データ利活用ロードマップ」で「誰もが、いつでもどこからでも、誰とでも、自分らしく学べる社会」の実現を目指すことがうたわれた。今や私たちは、学校に子どもを集めなくとも、すべての子どもの学習を保障することが可能な時代に突入しつつあるのだ。

 

 

私自身、これまで長らく、公教育の誕生以来ほとんど変わることのなかった教育システムを大きく転換する必要を訴えてきた。すなわち「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」システムの転換である。

この約150年間続いてきたベルトコンベヤー型のシステムこそが、いわゆる「落ちこぼれ」やその反対の「吹きこぼれ」、不登校やいじめなど様々な問題の元凶になっているのだ。

みんなで同じことを同じペースで勉強していれば、それについていけない子が構造的に生み出される。自分のペースで自分に合った学び方で学んでいれば、落ちこぼれることなどなかったかもしれないのに。

「同じ年生まれの人たちだけからなる集団」は、学校のほかにはおそらくほとんど存在しない。その人為的につくられた同質性の高さは、どうしても異質性を排除する力学を強化する傾向がある。いじめや同調圧力などに苦しむ子どもたちが、学校に行かないことを選択するのもある意味では当然のことである。

その意味で「誰もが、いつでも誰とでも学べる社会」の実現は、確かに目指すべき近未来の教育のビジョンである。私たちは必ずしも、みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で学ぶ必要はないのだ。

しかしだからこそ、学校は今、その本来の存在意義が問い直されているのである。それは一体、何だろうか?

 

 

人類は、1万年以上の長きにわたって、凄惨な命の奪い合いや、ごく一部の人が大多数の人々を支配する時代を生きてきた。今日の民主主義は、そのような歴史を何とか終わらせるために、最近になってようやく登場したアイデアである。

もし、人類が平和に、自由に生きたいと願うのならば、私たちはまず、お互いの自由を認め合う必要がある。そして、一部の支配者ではなく、対等な市民たちの手によって共に社会を築いていくほかにない。

これを「自由の相互承認」の原理という。現代の民主主義の最も根幹をなす考えであり、人類史上最も偉大な発明の一つであるといっていい。実際、人類の多くは今日、政治的・社会的自由を手に入れ、そして意外かもしれないが、この2~3世紀を通して戦争は確実に減少したのだ。

この「自由の相互承認」を実現するための、最も重要な制度。それこそが学校教育にほかならない。お互いの自由を尊重し、この社会を共につくり合うこと。学校は本来このことをこそ、子どもたちに教える場でなければならないのだ。

この本質に立ち戻り、学校教育を再構築していこうという試みは、既に様々な形で全国に広がっている。

たとえば、経済産業省が推進している「未来の教室」実証事業に「みんなのルールメイキング」という目玉事業がある。互いを認め合い、「自分たちの社会は自分たちでつくる」市民を育むためには、子ども自身が「自分たちの学校は自分たちでつくる」経験をたっぷり積んでいく必要がある。

そこで今、多くの学校では、生徒自らが教師や仲間との対話を通して校則の見直しや改廃を進める活動を行っている。認定NPO法人カタリバが、教育学者や法律家などの専門家と共に取り組みを支援している。

自治体規模で児童生徒が校則の見直しに関わることを推進しているところもある。たとえば熊本市は昨年「学校管理規則」を改訂し、校則の制定や改廃に教職員だけでなく、児童生徒もまた参画することを法的根拠をもって定めた。民主主義の土台としての学校教育の本義を、熊本市は行政としての責任を持って実現することを表明したのだ。

校則見直しはあくまでも一例である。重要なことは学校が、大人も子どもも、お互いを対等な存在として認め合い、対話を通した合意形成やコミュニティーづくりの経験を積む場になる必要があるということだ。逆にいえば、このことが実現されなければ、学校はもはやその存在意義を主張することができないだろう。

民主主義の土台としての学校。今こそ学校は、この自らの本質に立ち戻ることを求められているのだ。