丸山茂雄(3) 祖父 やわらかい社会主義者 情報と知識あふれる家庭環境

わが家のある江戸川アパートメントには、別の階に母方の祖父母が住んでいた。ふたりとも江戸時代末期の生まれだ。祖父は安部磯雄という。ピンとくる読者は日本史通に違いない。少し経歴をたどってみよう。

 

1865年、福岡藩士の家に生まれた。しかし明治維新で武士の階級がなくなる。そこで京都に出て、いまの同志社大学に入った。新島襄に感化されてクリスチャンの洗礼を受け、牧師になる。

その後、アメリカの神学校に留学。貧しい人を救うには宗教だけでは足りない。そう感じ、祖父流の「やわらかい社会主義」への思いが芽生えたのはこのころだろう。ヨーロッパを回って95年に帰国した。同志社で教職に就いた。

数年後、東京専門学校(現早稲田大学)に移る。大隈重信と親しくなり、野球部をつくった。初代の部長だ。「学生野球の父」とも呼ばれる。

幸徳秋水らと社会民主党を立ち上げたのは1901年。28年には普通選挙に立候補して代議士になる。8人兄弟の末っ子である私の母がほぼ成人の年齢に達し、これで子供たちがみんな独立したからと、やりたかったことに突き進んだのかもしれない。

終戦後、社会党首班の内閣が初めて発足したとき、片山哲首相がアパートまで報告に来ていた。祖父が亡くなるのはその2年あと。私が小学2年生になる年だった。

まるで歴史の教科書みたいな話になったが、私にとってはすぐそばに暮らすおじいちゃんの歩みだ。歴史は現在と地続きになっている。

江戸川アパートは各戸に浴室がなく、代わりに住民のための銭湯のような大浴場があった。高齢の祖父の手を引いていっしょに風呂に入るのが私の役目だった。祖父にしてみれば、自分のほうが幼い孫の面倒をみているという気分だった可能性はあるが。

祖父は幸徳秋水の大逆事件のような目立つことはしていない。旗を振ったといっても、イデオロギーごちごち、口角泡をとばしてというのじゃない。めちゃくちゃ穏やかな人だった。どこか私の性格に近いものを感じる。

人に頼まれると祖父は色紙に「質素之生活 高遠之理想」と記した。その通りの生活をしていたと思う。派手なこと、ぜいたくなことをしなかった。

祖父が亡くなってからも、早稲田の野球部や社会党の人たちが祖母を訪ねて江戸川アパートにやってきた。来訪者の世話は私の母がした。長らく母は祖父の秘書のように働いていたから、私はよく思い出話を聞かされた。「社会党にいたあの人はおじいさんと……」。そんな具合だ。

テレビやインターネットがある現代の子供は、親の知らないこともたくさん知っているだろう。私が子供のころは親たちが持つ知識のほうが圧倒的に多かった。その何分の一かを子供が吸収する。親の知識量に比例して子供の知識量が決まった。

わが家はよそのうちに比べて知識量が豊富だった。母から聞く大人たちの話ばかりではない。前回書いたように、中身はむずかしいながらも父からよく研究の話を聞いていた。情報があふれる家庭環境で私は育った。

だから知らず知らずのうちに頭を使っていたのかもしれない。小学校でも中学校でも成績はよかった。ところが高校に入ると、ちょっとずつ軌道を外れていくようになる。

(ソニー・ミュージックエンタテインメント元社長)