名もなき職人が手仕事で作った日用品に美を見いだす「民芸運動」が起こったのは1926年。日本美術界におけるその影響力の大きさを鑑みると、創始者である柳(やなぎ)宗悦(むねよし)が審美眼はもとより、経営的手腕の優れた人物だったことが大きい。このような人物像を真正面から分析した例はなく、それは私が4700通の書簡などをつぶさに検討するなかで浮かんできた。
「経営者」としての柳に着眼したのは2007年。日本生命に勤めていた私は万博記念公園(大阪府吹田市)にある美術館、大阪日本民芸館に出向を命じられ、常務理事に就いた。岡田信吾理事長(当時)から「学芸員の資格が必要」と言われ、京都芸術大学の通信制に入学。執務室に並んでいた全集の著者、柳を研究対象に決めた。
卒論は「柳宗悦と茶」、修士論文は「柳宗悦と宗教」。定年退職後も、民芸運動の研究者である濱田琢司先生に学ぶため、名古屋の南山大学まで新幹線で通学し、4年かけて博士号を取得した。
機関紙「月刊民藝」創刊号(39年)の中表紙には民芸運動の概念がツリーに見立てて示されている。注目すべきは日本民藝館に「財団法人」と付記されているところだ。
「(財団法人にすれば)税金は余程(よほど)少なくなり、且(か)つ美術館の性質上永久性ができる」。柳は当時、相談相手だった武内潔眞(大原美術館初代館長)への書簡にこう記した。開館した36年当時の私立美術館としては珍しく税務上優遇される財団法人とし、柳の収集品、著作権、自宅の全てを寄付して経営基盤を固めた。
37年には財団の常務理事に就任。多くの書簡を送って、大原家からの資金的支援を取り付け、大原家の関係者を財団の理事に据えることで継続的な援助を確かなものにした。パトロンをつかむのがうまい"ひとたらし"というと聞こえが悪いかもしれないが、資金調達の巧みさは一級だった。
もっとも、大スポンサーによる大口の援助だけではリスクがある。ほかの収入源も必要だ。そのため東京・銀座に設けたのが民芸品を販売するたくみ工藝店だ。正しい作品を生み出し、社会に届けるため「たくみがなければ仕事の実際化が来ない」と記すなど、直販の大切さを認識していた。
情報発信としては雑誌「工藝」「民藝」を創刊。一般人から広く寄付も募っている。
経営面での仕上げは民芸運動の一翼を担う民芸協会を全国拡大して協力者を募り、ネットワーク作りを進めたことだ。有力都市に民芸同人の有力者を配置するが、共倒れを防ぐために直営にするのは避け、本部とは独立した地方組織とした。現在も29の民芸協会と10を超える民芸館が存在し、民芸運動は一定の勢力を保っている。
民芸運動の背景には日本の行き過ぎた近代化への反省があったが、柳は非常に合理的で、緻密なアイデアを持つ現代的なリーダーだったといえるのではないだろうか。
南山大の博士論文を基に一連の研究成果を今年、「経営者 柳宗悦」(水声社)として出版した。私は定年後に不動産鑑定士の資格を取得し、現在、三友システムアプレイザルという会社に勤務している。創業者である井上明義相談役は大阪日本民芸館の創設に貢献した弘世現元日本生命社長と姻戚関係にあり、不思議な縁も感じている。
大阪日本民芸館は70年の大阪万博のパビリオンを継承した施設だ。大阪の経済界は今、2025年の万博を前に沸いている。今後は「柳宗悦と博覧会」をテーマに研究を続けたい。(ながい・まこと=会社員)


コメントをお書きください