矢野龍(23) 海外住宅事業 米社、リーマン危機で損失 撤退回避 利益の7割稼ぐ柱に

海外が長かった僕は社長になる前から、住友林業のきめの細かい住宅作りを日本の外でも展開できるのではないかと考えていた。土地勘のあるシアトルで現地企業と合弁会社を作り、米国での住宅事業の展開に乗り出したのは2002年、社長になって4年目のことだ。

 

社長は3年くらいたつと、慣れてだんだん自分のカラーを出すもので、僕もそうだった。米国の住宅バブルに乗って幸先のよいスタートを切ったのだったが、08年にリーマン・ショックに見舞われ、稼いだよりも大きな損を出して一時休止を余儀なくされた。

しかし僕は米国での住宅事業をやめる気は少しもなかった。社内ではこれで海外の住宅事業も頓挫したと思った人も多かったらしく、撤退論を口にする役員もいたが、新しい事業を育てるのは時間がかかるのである。

1975年に始めた住友林業の国内の住宅事業も、他の事業で赤字を補填しながら、収益が上がる事業に育てるのに10年以上かかった。柱になるような事業は会社全体の観点から戦略的に考えなくてはいけないことは、会社の歴史から分かっていた。

僕はシアトルでの合弁事業から、その先の展開まで考えていた。むしろそちらが本番で、役員時代に旧知の米森林会社大手のウェアーハウザーと、米国での住宅事業展開に向けた検討をしたときに練った戦略がベースにあった。

米国には全国的な大手のハウスメーカーがなく、州単位でオーナー企業が勢力を持っているところが多い。米国全体を見渡すと、気候が良く、人口も増えているサンベルトと呼ばれる米国南部の州で、こうした企業を買収し、ノウハウも入れていけば、拡大の余地が大きかった。

国内の住宅事業の足場を固めるのが優先だとして、米国での住宅事業の提案を上げた時には時期尚早と却下されたのだが、構想実行の機を、僕はうかがい続けていた。

リーマン・ショックの影響が落ち着いた2010年頃(ごろ)から事業を再開した。高収益の地場企業を見定めて、後継者がいない場合は買収、成長資金が必要なら初めは少額出資で、最終的には過半数を出資するというやり方をとった。

交渉は金融機関などの仲介者を入れず、当事者同士で徹底的に話し合う素朴な方式でやった。本音をぶつけ合う交渉をやると、話がまとまったときには意思疎通が高いレベルに達した。話が壊れても良好な関係が残った。

米国に先んじて、同じようなやり方で、リーマン・ショックの打撃が小さかったオーストラリアにも09年から出た。戦略は当たり、いまでは住友林業の利益の7割を米豪の住宅事業が稼ぐ。

海外に出るにあたってはその国のポリティカル・クライメット(政治情勢)を僕はよく見定める。法治国家で契約を守り、意思疎通がしやすい英語が通じ、そして経済が成長しているという3つが必要条件だ。アンダーテーブルの賄賂などで物事が決まるような国では、住友林業がやってきたような実のある買収は難しいし、そもそも住友の事業精神と相いれない。

住友林業グループに入ることが決まると、東京に招いて、必ず、僕が直接、自利利他公私一如(いちにょ)の住友の事業精神を話して理解してもらった。こんな話も本当の意味で言葉が通じるからできる。あまり知られていないが、住友林業の海外M&A(合併・買収)は日本企業としてはかなりうまくいっている事例ではないだろうか。

(住友林業最高顧問)