名物「串カツ」浪速の腹満たす カツレツが関係?東京発祥説も

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「ソースの2度づけ禁止」ルールとともに全国に普及した。もともとは労働者の空腹を満たすための栄養食だった。

 

「日本が貧しい頃、少しでも安く、おなかがいっぱいになるように作られたのが串カツだ」。大阪市浪速区の繁華街、新世界に総本店を置く「串かつだるま」を運営する一門会(大阪市)の担当者は話す。

新世界で米ニューヨークの遊園地を模して造った「ルナパーク」の跡地に、1929年にできた店が串かつだるまの前身だ。新世界の串カツ屋の先駆けといえる。

 

心のよりどころ

 

観光名所の通天閣が位置する新世界、西成区のあいりん地区、飛田新地を結ぶ三角形の内側は、当時は肉体労働者が集う街として活気づいていた。日中は汗水を垂らしながら建設や土木工事に従事する労働者にとり、安酒に加えて心のよりどころとなったのが、串カツだったという。

牛肉を一口大に切り、衣につけて揚げることで「かさ増し」できる。今でこそ白身魚やエビなど種類が豊富な串カツだが、当初は牛肉とじゃがいもの2種類だけだったという。

串カツの起源をたどると、洋食の歴史と深くかかわっている可能性があることが分かった。洋食は明治初期、外国船のコックが神戸港や横浜港に上陸し、カツレツなどを提供したことで広まったといわれる。

46年に大阪駅前に創業した老舗串カツ屋「知留久(しるひさ)」の創業者の孫にあたる松村宗蔵さんは「港の洋食屋さんが揚げていた大きな食材を小さくしたのが、串カツの始まりではないか」と推測する。

大阪の串カツと似たような料理は東京でも親しまれていたようで、東京発祥説もある。

四方田犬彦著「月島物語」(集英社)に、月島で独自に考案されたという「肉フライ」についての記述がある。牛の肝臓にパン粉をつけて揚げたもので、持ちやすいように串が刺してある。

いつから食されていたかは不明だが、月島の店は大正時代から屋台で営業し「オムライスやカツライスといった洋食を出していた」とある。やはりルーツは洋食屋にありそうだ。

知留久の松村さんによれば、大阪は竹串に刺していたが、東京では鉄の串を用いていたようだ。また大阪の串カツは牛肉だが、東京は豚肉と玉ねぎを交互に刺すスタイルが定着していった。

大阪の串カツ店の間では、東京発のものは「串揚げ」と呼んで区別することがある。大阪と東京で素材も異なることから別物と捉える考えもある。

串カツ発祥に関する「生き証人は残念ながらいなくなってしまった」と日本串カツ協会(大阪市)の吉野誠理事長は話す。大阪では船上のコックが実験的に提供した料理が徐々に広まり、新世界の店舗が大衆化したといえそうだ。

串カツは「労働者の食事として理にかなっている」と話すのは認定栄養ケア・ステーション「からふる」を運営する管理栄養士の時岡奈穂子さんだ。肉体労働に必要な筋肉の源になるたんぱく質を牛肉から取り、揚げ油から脂質を大量に吸収する。たっぷりとつけるウスターソースで、流した汗によって奪われた塩分を補う。

串カツが大阪名物になり、全国へ広がったのが2000年代前半だ。元プロボクサーで俳優の赤井英和さんが、子供の頃から親しんだ串カツの魅力をテレビ番組などで伝えた。有名になった結果、全国から新世界を目指して人が来るようになった。

 

女性も集う

 

家族連れも訪れて雰囲気が変わり、新世界の大衆演劇を見に来る女性も串カツ店に集うようになった。話術で客を楽しませる店員が人気を集め、「アイドル化」した店員目当てのリピート客も増えた。

全国チェーンの存在も大きい。08年に東京都内に1号店を開いた「串カツ田中」は現在、約300店舗を展開する。全国区になった串カツにチェーン店で親しみ、「本場の味も」と新世界を訪れる例も急増した。中国などからの観光客も増え、有名店で5時間待ちの行列ができたこともあった。

平日の昼間、新世界の串カツ店を訪れると、来客の半数以上が女性だった。客層の変化を受け、日本串カツ協会の吉野さんが経営する店では衣に吸い込まれる油の量が少ない健康志向の串カツも提供している。