1992年、52歳の時に常務になった。社長の大西和男さんが9年目に入り、バトンタッチも近いかという頃だった。こういう時期には雑音も多くなるもので、上の人から「ヤノリュウ、次の社長はおまえかもしらん」と耳打ちされたこともあった。
94年、実際に社長になったのは、住友信託銀行(現・三井住友信託銀行)から来られた山口博人さんである。山口さんは財務の強化のために招かれ、円満な人格から「仏の山口」と慕われていた。しかし外から来た分、業界や社内のしがらみに疎く、程なく専務になった僕は補佐役になった。
日本のバブル経済が崩壊し、選択と集中が課題になっていた頃だ。住友林業も、DIYブームに目を付けてホームセンターに進出したり、コストダウンのために工業化住宅に手を付けたりと、事業が水ぶくれしていた。
ホームセンターは先発の大手が店舗を大量展開して仕入れ力を発揮し、住友林業の数えるほどの店舗数では太刀打ちできなかった。工業化住宅も、自由設計・現場施工で柔軟性のある、従来の住友林業の工法で強みを生かしつつコストダウンすれば十分戦えるはずだったから、無駄な二刀流の様相だった。
こういうものも、現場が発案して一生懸命やっていたなら活路も開けていたかもしれない。しかし根が起業家であった山崎完(ひろし)さんが社長や会長の時代に発案し、下が、上からの指示に仕方がないと格好だけつけているようなありさまだったから、経緯がよく見えている者として、山口さんに撤退を進言した。
担当の海外部門では攻めの施策を打った。MDF(中密度繊維板)という建材に、コスト競争力が高い24時間コンピューター管理の連続プレス型の製造機械ができたのを受け、世界シェア1位を目指す好機と考えた。
僕は事業をやるからにはトップを目指さなくては意味がないというのが信念だ。そのための構想を練るのも好きである。MDFも、世界シェア30%を取ればトップになれると考えた。当時世界に30ほどの大工場があり、住友林業が各地に10の新鋭工場を作ればシェア30%が視野に入る。
しかしこれはポルトガルに工場を作ったくらいで終わった。欧州で作ったMDFをアジア市場に持ってくる計画だったのだが、床のダニ対策として地元欧州での需要が爆発的に高まって、輸送費のかかるアジアに持ってくる意味がなくなったのだった。
事業のサイクルは30年とその頃聞いたものだが、実際には3年くらいで様相が変わってしまうことをこのときに実感した。それをふまえて、ぶれない、柔軟な戦略をもっておくことが必要なのだ。
僕は山口さんの次に社長になったのだが、山口さんは社長時代、僕に「矢野さん、どうでしょう」と僕の担当以外のこともよく意見を求めたから、会社全体のことを考える経験になった。
経営者はいい時期にやれれば良いが、山口さんはバブル崩壊後に経営のかじ取りを任され、苦労された。外材の輸入も住宅事業も苦戦を強いられた。それでも財務に強かったから、守りを重視し会社の基礎体力を損なうことなしに苦しい時期を乗り切った。
上に立つ者として心持ちが未熟で、闘争心ばかりが先行するようであった僕がもし社長になっていたら、攻めることしか知らないから、じたばたして時勢にあわないことをして、会社をおかしくしていたかもしれないと思う。

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