シアトルでの訴訟を経験して腹が据わった僕は、住友林業に残ると決めると、もっと会社を大きくしたいと思って海外企業の買収の仕事にも踏み込んだ。長年海外を飛び回って人脈が深まり、普通では手に入らない情報が僕の所に来るようになった時期に当たって、仕事が一回り大きくなった面もあった。
大きな案件が二つあった。
ひとつは1980年代後半の部長時代、米国の山林保有会社の大手であるプラム・クリークの買収話だ。同社は米国最大の鉄道会社の一部門で、親会社が鉄道事業に特化する経営判断に伴って売却が検討されていた。旧知のプラム・クリークのトップが「ヤノ、どうだ」と声をかけてきたのだ。
買収に必要となる資金は、その頃の住友林業にはかなり大きな金額だった。そのため、銀行が融資をつけるかが焦点になった。
銀行も入った交渉はなかなか進展しなかった。日本橋小網町にあった住友林業本社での話し合いの3日目、先方のトップが僕を外に連れ出し、「どうだ、本当のところを教えてくれ」と聞くので「やめよう、無理だ」と答えた。
身内の恥をさらすようだから詳しいことは書きたくないけれども、後に分かったところでは買収案件について銀行に否定的な情報を流していた役員がいた。リスクがあると言うのは分かる。しかしその役員は僕に「どうして最初に俺のところに話を持ってこなかったのか、なんとかしてやったのに」と言ったのだ。
僕は驚いたが、これは守りの社風の病弊かもしれない。常に成長を志向していないと、こういう時、会社にとってどうなのかより、それが自分の手柄になるかを一番に考える人もあらわれるのだ。
もう一つは、僕が役員になってから舞い込んだ、南米チリを本拠とする国際的な木材・パルプの有力企業の身売り話である。
同社の対日原木輸出の8割を住友林業が扱っていた関係から、やはり先方のトップから、経営的な苦境を受けて、僕に買収の打診があった。
プラム・クリークの時のように話が社内の思惑に巻き込まれるのは避けたかったし、住友林業の事業領域の外にある、パルプ事業を持つ会社を買うという腹決めが必要な案件でもあったので、僕は最初、会長の山崎完(ひろし)さんに話を持っていった。
サンティアゴのホリデイ・インのプールの横で、トップが顔合わせし、このときは銀行は入らないで直接の話し合いをした。しかし山崎さんは首を縦に振らなかった。
原因は僕が財務に弱かったことだ。買収はお金を出せば買えるが、大事なのは買ってからどうするかだ。普通なら向こう10年の損益見通しとか投資リターンの分析などを検討材料として用意する必要があるのだが、僕はそういう総合的な財務判断能力が十分でないことを思い知らされた。
それでは山崎さんも判断のしようがない。今考えると、仮にそのとき買っていたとしても、ラテン系の会社だから風土も独特で、M&A(合併・買収)のもう一つの重要な要素であるケミストリー(相性)の面から、苦労していたかもしれなかった。
しかし、プラム・クリークを買っておけば住友林業は世界一の森林会社になっていたかもしれないと思ったりもする。破談の経緯が悔しいから、ことさらにそう感じるのだろうか。
(住友林業最高顧問)

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