矢野龍(17) 社長に直訴 退社「3年待て」と慰留 米材輸入立て直しに飛び回る

訴訟が一区切りついて1983年に東京に戻ると、僕は直ちに社長の山崎完(ひろし)さんのところに行き、訴訟の間に起こったことをすべてぶちまけた。山崎さんは住友金属鉱山から来た人だったし、またその頃は社内の風通しも悪い時期だったから、訴訟の件も山崎さんには詳しい情報が上がっていなかったのだ。

 

山崎さんにひと通り話し終えると僕は「この会社に失望したから辞めます」と言った。すると山崎さんは「で、君どうするんだ」と聞くので「心配せんでください。会社に弓を引くようなことは絶対にしません」と答えた。

僕はその頃やりたいことがあった。米国で「ランダムレングス」という木材情報誌が広く読まれており、同じような情報誌を日本でやったら業界のためになると考えていた。40歳代の前半だったから、新しい会社を立ち上げる気力も体力も十分にあった。

長く海外に関わって、人脈や情報力にも自信があった。僕はそれゆえに、海外の会社や国内の会社から転職の誘いがくることも多かったのだが、住友林業で培った仕事上の財産を、住友林業とぶつかる形で使うことは信義に反すると思っていた。

それで情報誌なら住友林業と競合しないし、やりがいもあるだろうと考えていたのだが、山崎さんは僕の話を静かに聞いたうえで「3年待て」と一言だけ言った。

興奮していたから正確には覚えていないが、そこで僕は、ことなかれで保身ばかりを考えていて、会社のためにならない役員がいるから、体制を改革してほしいという意味のことを言った。

山崎さんが「分かった」と言うので、いったん納得した。それからは辞表を常に内ポケットに入れ、火の玉のように働いた。会社を代表して争ったシアトルでの訴訟を通じ、わかりやすく言うと愛社精神、僕の頭の中にある言葉で言うと、住友林業の魂のために力を尽くそうという気持ちが強くなっていたのだ。

当時、住友林業の外材の輸入事業は混乱していた。海外部のグリップが利いていないため、各地の支店が木材を外部の商社などから調達するような逸脱が日常化していた。おのずと、一時は業界で高位にあった住友林業の米材輸入も低迷していた。

僕は自分の部隊を率いて、順位を再び上位に戻すため、夜も昼もなく、国内外の各地をかけずり回って働いた。自分では記憶がないのだが、その頃に僕が持ち歩いていた大学ノートの表紙には「米材日本一」とマジックで大書してあったそうである。

怖いものなしで仕事に打ち込んでいるうちに、住友林業の順位は徐々に上がっていった。80年代の後半にさしかかると、日本経済も、今思えば低金利の内需拡大政策でバブル経済の芽が出始めた時期になって、海外部が上げる収益も大きく改善した。

当時、まだ離陸期で戸数が採算ラインに達していなかった住宅事業の赤字を海外部の黒字が埋めて、間接的に住宅事業を育成するのに役立っていたことは、住友林業の歴史の上でも意味のあることだったと思う。

山崎さんに会社を辞めると言ってから、3年たつと部長になり、それから2年後に取締役になった。僕は48歳だったから、その頃の住友林業としては普通より何年か早い、抜てき人事だった。会長になっていた山崎さんから「海外を好きなようにやれ」と言われたが、すでに好きなようにやっていた。

(住友林業最高顧問)