30歳代から僕が海外出張のかばん持ちをした山崎完(ひろし)さんは、戦後に社名が現在の住友林業となってから3代目の社長だ。筆頭株主だった住友金属鉱山の専務から転じ、コストダウンなど自助努力の余地が大きい製造者利益を取る狙いを持って1975年に住宅事業への進出を決めた、住友林業の中興の祖である。
僕の母と同じ1914年生まれで、初代社長の植村實さんもそうだったが、同世代の人が戦争で死んだため、父を戦争で亡くした僕を息子のようにかわいがってくれた。
しかしお供の仕事はハードだった。山崎さんは訪問する先々で、その土地の話題をスピーチに取り入れた。僕は早朝5時から起きてローカル新聞に目を通し、7時半までに要点を伝えた。それを聞いて山崎さんが指示をし、東京で作ってきた原稿を、英文タイプで打ち直した。
夜はちょっと面白かった。山崎さんは10時には寝ると決めていたので、9時には宴席がどんなに盛り上がっていてもぱっと切り上げ、ホテルに戻った。するとそれまで「矢野君、矢野君」と鋭く命令をしていたのが、今日の仕事の時間は終わりだと一変し、「矢野さん、なにをお飲みになりますか」と、水割りなどを作ってくれるのだ。
とはいえ、そのひとときが過ぎると僕は部屋に戻り、その日のミーティングの記録を作らなければならなかった。山崎さんは、ニューズウィークやタイムなどを読んで何でも知っていて、程度の低い仕事をすると猛烈に怒った。
記録作りはミーティングの倍以上の時間がかかり、それから森林などの現場視察で汚れた山崎さんの靴を磨いたりして、寝るのは午前1時や2時になった。僕は信長の草履を懐であたためた豊臣秀吉のように滅私奉公の気持ちでやったからなんとかお供の仕事もこなせたけれども、日本に戻ると疲れから、2週間くらい歯が浮いていた。
山崎さんは終戦直後の住友鉱業(住友金属鉱山の旧社名)の課長時代、若い頃からチリに行って、合弁事業や海外事業で活躍したアントレプレナー(起業家)だ。山崎さんが住宅事業を始めていなかったら、住友林業は今も売上高が2000億~3000億円(実際は2021年12月期で約1兆3800億円)くらいの、木材市況に業績が左右される一介の山林・木材建材会社にとどまっていたのではないだろうか。
出張の夜、ホテルでの差し向かいでの雑談では、なぜ住宅事業に進出したのかなどを目を細めるようにして楽しげに僕に話した。僕が後に、6代目の社長になったときに奥さんから聞いたところでは、「矢野君には僕が20年間、帝王学を教えたから大丈夫だ」と言っていたそうだ。
たまに「君はどう思う」などと、事業上の問題の意見を聞かれていた気もするが、僕は帝王学などというような大仰なものを教わった自覚はなく、口答えばかりしていた。しかしそれも、家では奥さんに「矢野君がこんなことを言うんだよ」とうれしそうに話していたらしい。
山崎さんは背中で人を教えていた。
経営者は無私高潔で、高邁(こうまい)な志を持たなければいけないこと、社長は会社の代表として堂々と振る舞うべきこと、物事は徹底してやらなければいけないこと、事業は精査・分析して構想を作り、時間軸を決めて着実に実行していかなければならないことなど、僕の経営者としての行動指針の多くは山崎さんの後ろ姿から学んだことだ。
(住友林業最高顧問)

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