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矢野龍(13) 中国支店 気楽だった広島の4年間 社長と海外へ 通訳務め冷や汗

1972年に6年間のシアトル勤務が終わり、広島の中国支店に配属された。会社人生を振り返ると、広島にいた4年間が一番気楽だった。海外部が輸入した木材を指示通りに売ればいいだけで、毎日、定時に家に帰った。妻もあの頃が一番幸せだったと言っていた。一人娘が生まれたのも広島の2年目だ。

 

僕は金縁めがねをかけ、へんな横文字混じりでしゃべるアメリカかぶれだった。しかし業界の会合などに顔を出すと、地方では海外の情報が入ってこないものだから重宝されもした。

75年に広島カープが初優勝したときには、繁華街の流川(ながれかわ)はたいへんな盛り上がりだった。ちょうど来ていたカナダの輸出業者と居酒屋に入ると、助っ人外国人のホプキンスに似ているというので、大さわぎで歓迎された。

広島ではしかし、のんびりしていたところに思いもしない仕事が降ってきた。

74年に社長に就任した山崎完(ひろし)さんの海外出張に同行して通訳をやれというのだ。聞けば海外の取引先が本社に来たとき通訳を務めた海外部の人を山崎さんが気に入らず、社内で一番英語ができるのは誰だと、僕にかばん持ちの役が回ってきたらしかった。

山崎さんは妥協のない人だ。初めての海外出張も、取引もないのにニューヨークでバンク・オブ・アメリカ(BOA)に行って、トップに会うということだった。

お供の仕事は最初からつまずいた。NY行きの日本航空で、僕はファーストクラス、1Aの山崎さんの隣に座らされた。山崎さんはワインに造詣が深く、乗務員になにか小難しいことを言って、白ワインが出てきた。

僕はシアトル時代の現場仕事でウイスキーやウオッカをがぶがぶ飲んでいたため、横でがぶがぶ飲んだところ「君ね、ワインはブーケと言って香りを楽しむんだよ。6年もアメリカにいて勉強しなかったのか」とたしなめられた。

BOAを訪問してのランチミーティングでは、日本の国家予算についての話になり、僕に説明しろと言われた。国家予算など気にしたこともなかったし、14兆円くらいだと山崎さんが言った気もするが、当時は1ドル=300円くらいで、ドル換算もすぐにはできないしで、まごまごしていると、山崎さんが烈火のごとく怒りだした。

先方のトップもびっくりしてしまって「ワッツ・ゴーイング・オン?(どうしたのか)」と聞くので、かくかくしかじかだと説明すると、まあいいじゃないかというようなことを言うのだが、そんなことを通訳して山崎さんに言うわけにもいかない。食事もまったく食べられなかった。

そのとき言われたのは「君は僕のウオーキング・ディクショナリーだ」ということだ。随行役はかばんを持って通訳だけしていればいいのではなく、もっと高次の補佐役なのだと諭された。

あれだけ失敗したのだからもうクビだろうと思っていたら、日本に帰って空港で「よく頑張ってくれた。次は秋に行くからまた頼む」と言われた。それで僕は、山崎さんに勝とうと思って、400ページくらいのワインの本を買い、歴史から食事との相性から、徹底的に勉強した。

それから山崎さんが社長、会長をしていた20年間、30回以上、海外出張のお供をして、この上ない勉強をする機会に恵まれた。ワインの勉強も実って、いつからか会食時のワインの選定を僕に任せてくれるようになった。