僕が米シアトルに赴任した頃の住友林業は米材輸入に力を入れ始めたばかりで、日本勢十数社のなかでの順位は最下位に近かった。米国から見ると高度成長期の日本は一番の輸出先だったが、大手商社が強かった。僕はこれをなんとかしたいと思い、上位に食い込む作戦を練った。
まずやったのはセント・レジスやウェアーハウザーなど、ビッグ6と呼ばれていた現地の森林所有会社大手との直接の交渉だ。それまではブローカーを介した間接買い付けをしていたのだがそれでは順位は変わらない。僕はブローカーを全部外し、森林会社のキーマンに体当たりした。一緒にゴルフや食事をして、家族ぐるみの付き合いをした。
米国人はハート・トゥー・ハートの関係を大切にする。セント・レジスの木材部長のボブ・ラドクリフとは特に親しくなり、クリスマスに夫妻をホテルに招待してパーティーをし、大みそかにはクラブでダンスをした。元日には僕の家に来てもらって、雑煮や煮しめなど、妻が日本の料理をふるまった。
同じ大学で英語を学んだ妻にはずいぶん助けられた。ボブの奥さんのフィリスはおじいさんが神戸に住んだことがあるため日本に興味があり、妻が着物の着付けを手伝ったり、普段から日本語を教えたりした。ラドクリフ家とは今も、子供や孫まで家族ぐるみの付き合いがある。
僕のその頃の月給は450ドル(1ドル=360円だったから16万2000円)だったが、そんなプライベートの付き合いをしているとお金もかかった。あとで聞くと、妻が実家からいくらか融通してもらっていたそうだ。妻は頼もしい同志のようだった。
直接、本音の話ができて、しかもたくさん買うのだから、先方にもメリットがあり、取り扱う量は次第に増えた。ブローカーを外すと港での木材の仕分けなど、大手商社の人たちがやらないような現場仕事も増えてたいへんだったが、アリとキリギリスのアリのようなものだと言い聞かせて頑張った。実際に木を見て買う相手には、向こうも売りがいがあるのだった。
買い付けた木を運ぶのに輸送船も必要だ。大手の海運会社は住友林業を相手にしないから、中堅の船会社に融資や積荷保証をして、専用船を5隻あまり造ってもらうこともやった。日本国内の販路も、金融面などの工夫をして広げた。
僕はシアトルに6年いたが、駐在を終える頃に社長の保田克己さんがウェアーハウザーへ表敬訪問に来たときには、住友林業の先方でのランクは最上位の「A1」に上がっていて、ウェアーハウザーのヘリコプターが保田さんをシアトル空港に迎えに来た。
僕は通訳で同席した。するとその夜に木材担当の副社長のドン・ラッシュから電話があり「ユー・アー・ハイヤード(おまえは採用された)」と言う。ウェアーハウザーのトップに見込まれ、原木輸出担当マネジャーで月に2000ドル出すというのだ。
僕はその気はなかったから、「いずれトップになれるのか」とジョークを言った。「名字の頭文字が(ウェアーハウザーの)Wでないとムリだ」と言うので、それを捉えて断りの返事をした。
泥臭い仕事にもまれて力をつけた僕はその頃、肩で風を切るようであった。現地の大学の通信教育で、後に日本でも認可された2×4(ツーバイフォー)住宅の勉強をしていたら、先進的な知識を買われて大手商社からスカウトされたこともあった。
(住友林業最高顧問)

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