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矢野龍(11) シアトル駐在 大自然に心が震える 米材輸入の開拓期 ヘリで回る

3年の勉強期間はあっという間に過ぎ、1966年から米シアトルでの駐在員生活が始まった。近くにエバレットやオリンピアという積み出し港がある西海岸の木材貿易の拠点だ。住友林業の米材輸入の開拓期。すべてを一から始める仕事だった。

 

6歳だった僕は水を得た魚のようにあちこちを飛び回った。森林の買い付けのためヘリコプターに乗って文字通り飛び回るのだ。空に舞い上がるとロッキー山脈やカスケード山脈の壮麗な姿を一目に見渡せた。森の上を飛ぶとクマやシカがヘリの音に驚いて走り回る。眼前の大自然に心が震え「なんていい会社に入ったのだろう」と人生をかける仕事を探し当てた思いがした。

東京にいると山林の購入は1億円くらいで社長決裁なのに、シアトルでは5億円や10億円の取引を僕一人で決めた。今からするといいかげんな話だが、その頃の日本経済は高度成長にわいていて、原木を買えば買うほどもうかったのだ。英語で米国人とじかに交渉したりするのは僕の得意とするところだったからおのずと権限も大きくなった。

森林の調査は空から見るだけでなく、森の中に降りて、木の状態を見て回る。天候が変わってヘリが迎えに来られなくなることがあるため、寝袋と3日分の食料を携行した。泊まりになってしまったときはオオカミに襲われないよう、一晩中たき火をした。すぐ近くで、何匹ものオオカミの目が光っているのだ。

案内役の米国人と一緒に行くのだが、木の調査に熱中するあまり道に迷うこともあった。何年目だったか、ワシントン州アバディーンの北にある州有林の調査では、道路の横だからと油断してコンパスや地図などを持たないで歩き回るうち、方角を見失った。

森の中で迷ったときは小川を探し、それに沿って下流に歩くのが鉄則だ。ぱっと見では分からない深い沼にも注意が要る。日が暮れて夜になり、10時間くらい歩き続けた。朝焼けのころ、運良く道路に出て車にたどり着いた。生還を祝し、カップに新雪を入れて飲んだカティーサークの味は忘れられない。僕はその後も2、3度死にかけ、そのたびに自然の過酷さとサバイバルの智恵を学んだ。

月に2回ほどしかシアトルには戻らず、米国やカナダの田舎町を転々とした。僕は高校まで山口県で暮らし、大学も福岡県だったから主に魚を食べて育ったのだが、米国では朝はステーキ&エッグ、昼はランチョンステーキ、夜はTボーンステーキという生活になった。しばらくたつとすっかり肉食の体になり、魚が食べられなくなった。

カナダで九州ぐらいの広大な森林地帯の渓谷部を水面下に沈める、ベネットダムというダム建設の際の森林買い付けの仕事もした。そこでは一本一本切るのでは間に合わないから、ブルドーザー2台に太い鎖をつないで、次々に木をなぎ倒していくのだった。高さを調節する大きな鉄球がついていて、ボール&チェーンショーと呼ばれていた。

ダムに水が入り、浮いてきた木を収穫するのはウオーターショーと言った。専門家にどれくらい浮いてくるか聞いて契約したのだが、7割のはずが3割しか浮いてこなくて想定した利益が出なかったのはともかく、北米大陸での仕事は壮大なショーの中にいるようで、心が踊った。

アラスカも木材の産地だったからよく出かけた。イヌイットの人たちと杯を交わしながら、アラスカの自然の美しさを語り合った。

(住友林業最高顧問)