住友林業に入社したのも運と縁のさずかりものだ。僕は大学が外国語学部の米英科だったから、就職活動では最初、外資系の石油会社を受け、1次試験を通っていた。
しかしそんな頃に、北九州大学の厚生課に住友林業から求人票が来た。「海外駐在員枠」という特別の枠だという。厚生課の人が「よく分からないけど、せっかく住友グループの会社から求人が来たのだから、おまえ受けろ」と言われて受けたのだ。
試験は大阪であり、親戚の縁で三洋電機に就職して守口に住んでいた姉のところに泊まって受験した。それで行ってみると、ずいぶん簡単な筆記試験なのだった。
その頃あった「時事英語研究」という雑誌に2、3カ月前に出ていた国鉄の大きな事故に関する文章を、80分で訳せという。実用英語を学ぶ学生なら普段から読んでいた雑誌で、僕は内容を覚えていたので15分ほどでできた。
試験に来ていたのは関東や関西の名の知れた外国語大学の人ばかり、僕を含めて8人だった。そのときが初めての海外駐在員枠の募集だったから、会社のほうでは北九州大学にも一応、求人を出しておくか、くらいの話だったのではないだろうか。
面接では、前に役員が並んで受験者と向かい合った。当時の社長の植村實さんが「あなたはお父さんを戦争で亡くされて、お母さんがお一人ですが、海外に赴任しても大丈夫ですか」と聞き、僕は「母は小学校の先生をしていて(職業を持っているから)大丈夫です」と答えた。
なんということもないやりとりだったし、それからこれは関西の大学の人だったと思うが、自分は住友林業の専務さんを知っているというようなことを言っていて、なんだこの会社は縁故採用なのかと思った。それでどうせだめだろうと、健康診断の尿検査では少しだけ入れればいいのをコップいっぱい入れ、それから姉の家に3日ほど居て、大阪で遊んで帰った。
しかし大学に戻ると、厚生課から「すぐ来い」と呼び出しが来た。試験を受けたその日に、採用の通知が来ていたそうだ。厚生課は、僕に住友林業に就職するように勧め、1次試験を受かっていた石油会社は、また別の人に行ってもらうことにしたので、それに従った。
4月になり会社に入ると、人事課長という人が僕に「おまえなんで採用されたか知っとるか」と言って、受かった理由を教えてくれた。受験者の中で、僕が一番受け答えがはっきりしていて元気があったからだという。
海外に行って原木の買い付けをするのは泥臭い現場仕事だ。会社は英語で即戦力という人よりも、英語はそこそこでかまわないから、それに向いた体力のありそうな人間を求めていたようだった。
僕の採用を最終的に決めたのは植村社長だったそうだ。後で思うと、植村さんは1910年の生まれで、戦争の時期に兵隊に取られる年齢だった人だ。この世代の人は戦争で死んでいった人に対する特別の同情心がある。戦争で父親を亡くし、母が小学校の先生をしながら育てた僕を、やはり特別の関心を持って見たのかもしれなかった。
住友林業はその頃は売上高が100億円強、純利益が1億円、社員が600人弱の会社だった。筆頭株主だった住友金属鉱山の系列会社のような位置づけで、初任給は1次試験を通っていた石油会社の半分以下だったと思う。
(住友林業最高顧問)

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