僕の母は心の広い、気丈な人だった。とても強い運勢を持つと言われる五黄の寅(とら)、1914年の生まれだ。ちなみに五黄の寅は36年に一度だから、2022年の今年もそうだ。生きていれば108歳になる。書道の高段者で、一つの道を極めることを知っている人でもあった。
そんな母が、僕の前で3度泣いたことがあった。
最初は旧満州(現中国東北部)から日本に引き揚げてきて2年ほどたった頃に、国から父が戦病死したという通知があったときだ。どこからそれだけの涙が出てくるかというほどにわんわん泣き続け、僕たち子供はどうしていいのかわからずおろおろした。しかし1週間くらいでスパッと気持ちを切り替えて、そのあとは普段の母に戻った。
2度目は僕が高校3年の時、防衛大学校に受験の願書を出したときだ。なんとなく反対されそうに思ったので母には言わずに出したのだが、家に受験票が送られてきたのを見つけ「私は最愛の夫を戦争で失った。最愛の子供まで失いたくない」と言って、驚くほど強く反対した。
僕はパイロットに憧れていただけだったから「もう戦争なんかないよ」と口答えすると、今度は堰(せき)が切れたように声を出して泣き出した。母は防衛大に行くと、父のように戦争に行くものだとしか考えられないようだった。
3度目は僕がたしか北九州大学の3年生、母が山口県の山の中から小倉の6畳1間の下宿に遊びにきたときのことだ。僕はその頃「誰かを愛し、誰からか愛されたい」というふうな英語のフレーズを覚えたりしてそんなような気分になり、ようやく思春期に入りかけていた。
大人のことに何か口を出せるような気持ちになって、なんの気なしに「母さんも再婚したら」と言ったところ、「うれしい、男の子は有り難い」と言って涙を流した。
聞くと、いままで何回か再婚の話があったようだった。しかし、父をよく覚えていて潔癖な性質だった姉が、再婚するなら私は家を出ると言って、そのたびに強く反対したそうだ。その頃の母は「もうその気はないのよ」と言っていた。もう40歳代の後半になっていた。
母は死んだ父から、男の僕を自由に育てろと言われていたようだった。ああしろ、こうしろというような、小うるさいことを一切言わなかった。何か言ったのは、防衛大の受験のときくらいだ。姉や妹に対してもそうで、子供の思うようにさせた。
晩年は施設に入ったが、6年前に102歳で死ぬまで、日記を付けて、言うこともしっかりしていた。ずっと「夫は今でも生きている」と言っていた。父が出征していったシベリアに探しに行くのだと言い張り、姉が何度か連れていこうとしたが、行くのが難しいところなので、ついに行く機会がなかった。
厳密に言うと、母が小言のようなことを言ったのはもう一つある。後に僕が社長をやっていた頃に、会社の社長が悪いことをしたというニュースを目にするたび「龍ちゃん、悪いことはしてないやろうね。ご先祖様に悪いからね」と電話をかけてきて僕を注意してくれていた。
僕は母からいろんなものをもらったが、社長になってからもお金をもらった。同居して母の面倒をみていた妹の家に妻や娘を連れて遊びに行くたびに、妻や娘の居ない部屋に僕を連れていって「悪いことをしたらいけないよ」と、こっそり1万円くれた。
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