中学校は厚保(あつ)中というところで、少し広い地域から生徒が集まるから一学年の人数は小学校の3倍くらいの20~30人いた。母が校長をしていた平沼田の小学校の分校の敷地にある家から自転車に乗って、毎日、田んぼの中の砂利道を30分かけて通った。
中学校も勉強する雰囲気は乏しく、僕は相撲や軟式テニスなど運動ばかりしていた。足が速かったので、陸上で県大会に出たこともあった。授業中も外へ出て、校庭の横の川で魚を捕ったりした。
中学を出ると、普通高校や商船高校、商業高校などへと進路が分かれた。僕は普通高校を選び、山口県立の厚狭(あさ)高校を受験した。中学での成績は良いほうだったので楽々合格だと思っていたのだが、ぎりぎりだった。先生が合否を伝えるときに、ドベという言葉を使っていたから、ビリ合格に近かったようだった。
高校でも運動に熱中した。夏は野球、冬はラグビーをした。野球はサードで4番、ラグビーは14番を付けてウイングだった。もっとも、県大会で1回戦負けが当たり前の学校だったので、いいポジションをやったと言っても、お山の大将のようなものだ。
3年生のときの体育祭では応援団長になって、みんなの前で旗を振った。前にいる女子がさかんに騒いでいるので気をよくしていたら、後で聞くと僕はサポーターパンツのようなものをはかないでゆるい体操パンツをはいていたために、見えてはいけないところが見えていたのだという。同じ高校に入った妹が前の列で泣いていた。
高校は厚保の駅まで自転車で行って、汽車で二駅のところにある厚狭に通った。厚狭は九州からの夜行列車が夜の十時ごろに通過する山陽線の駅で、落語家が「夜着いてもあさ」と話の枕などに使っていた、昔はちょっと有名だったところだ。毎日、暗くなるまで野球やラグビーの練習をして、腹が減ってしかたがないので、高校の坂をおりたところにあったうどん屋で、1杯がたしか10円だったかの素うどんを2杯食べ、家に帰ってまた食べた。
中学までは勉強をしなくても成績はそこそこ良かったが、高校では通用せず、成績は中の上くらいだった。3年生になると、僕はパイロットになりたいと思って防衛大学校に願書を出した。
しかし防衛大の受験には母が強く反対し、成績が思わしくないので受ける大学が少なくなった。防衛大の試験は12月で、時間的には少し考える余裕があったのだが、私立の大学はお金がかかるから行けないし、九州大学などの旧帝大は学力的に圏外だった。
先生がいろいろ調べてくれたのだと思う。「北九州大学の外国語学部がいいかも分からんぞ」と言うので、北九州大学を受験した。5市合併で北九州市になる前の、小倉市立の学校だった北九州大学は、今ではたくさん学部ができて立派な総合大学に様変わりしたが、僕の頃は英語と中国語からなる外国語学部と商学部だけの大学だった。
僕は小さい頃に母から英語の歌を教えてもらって英語に親しみがあったから、外国語学部の米英科を受験した。大学から通知が来て、担任の先生からぎりぎりの合格だったとまた言われた。
僕は高校もぎりぎり、大学もぎりぎりだったが、ともかく上の学校に進んだ。姉は勉強がよくできて、また県の健康優良児に選ばれるほどだったが、資力の制約があるので、母は男の僕だけを大学に行かせてくれた。
コメントをお書きください