小学校の5年生の時に、たまに食事などに呼ばれて世話になっている家の子供を級長にしたりして、あからさまにひいきをしていた先生が嫌で仕方がなかった。母が案じて6年生の1年間だけ、それまでの東厚保(あつ)から、15キロほど南へ行ったところにある厚狭(あさ)の小学校に転校した。
母の弟が厚狭に住んで高校の先生をしていたので、1年間そこに世話になって学校に通った。僕は昔から、納得できないことを我慢できない性質があったようだ。
厚狭の小学校に転校すると、以前に秋の相撲大会で負かした有吉君という体の大きなそこのけんか大将が、うらみに思って仕返しをしようとした。やはり股の間に入ってひっくり返す得意の戦法で負かした相手だった。
「有吉がおまえとけんかしたいと言いよる」と側近から講堂の裏に呼び出され、最初は一対一の勝負で負けそうになっているところを、先生に見つかって止められた。
しかしまた呼び出されて講堂に行くと、今度は木刀やほうきを持った取り巻きの連中も10人くらい並んでいた。それで走って逃げたところ「矢野はおそれ(怖がり)だ」というあだ名がついた。
実際、僕はそのころ臆病だった。僕が中学校に入るころに、母は平沼田というところにある厚保小学校の分校の校長になり、家族はそこの木造校舎と棟続きになっていた小さな家に引っ越したのだが、家の離れにあった便所に、夜に行くのが怖くて仕方がなかったのだ。
ほんのすぐ近くにある小屋なのだが、真っ暗で何か出てきそうで気味が悪く、僕に金魚のフンみたいにいつもくっついて歩いていた妹を連れていって「おまえここに立っとれ」と、妹を近くにいさせて急いで用を足した。
そんな一方で、だんだん成長するにつれ、4人家族のなかでただ一人の男である自分がしっかりしていないといけないという意識も芽生えてきたらしい。僕はその頃から、夜は木刀を枕元に置いて寝るようになり、外でがさがさ音がすると「誰だ!」と大きな声を出して飛び出した。
田舎も田舎だから、夜にそのへんをうろついているのはタヌキかキツネに決まっているのだが、僕の怖がりを見抜いて「龍ちゃんはおそれやなあ」とよく言っていた母は、大げさにそんなことをし始めた僕を「オスの本能だ」と言って面白がっていた。
平沼田の分校の家は2部屋あって、それまでは水車小屋などの1間の板間の家に暮らしていたから、ようやく普通の家に住んだようであった。山口で暮らし始めて畳の部屋がある家に住んだのは、そのときが初めてだった。最初は風呂がなかった平沼田の家も、しまいの風呂で皮膚病をもらったりするのを年ごろの姉が嫌がるようになり、家の外に五右衛門風呂がついたときはうれしかった。
僕は家の近くの用水路や小川で、糸につないだ釣り針と、水の中をのぞく箱のようなものを使ってフナを釣ったり、木の板などでコイを追い込んで捕まえたりして、母に夕食用だと言って持って帰った。コイは1週間くらいきれいな水につけておかないと臭くて食べられなかった。分校の横には農家の栗の木があって、栗を勝手に採ってそこのおじいさんに怒られた。
平沼田に移る前まで住んでいた東厚保の水車小屋は、僕らが引っ越してまもなく、台風の時に流された。これも運に守られたのだった。
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