文字通り中国山地の真ん中の、人家もまばらなところだ。水車の横のおんぼろな板の間で1枚のせんべい布団に一家4人がくるまって寝た。
母は男の僕を父の忘れ形見のように思っていたのだろうか、まとわりつく小さな妹よりも、僕を腕の中にぎゅうと抱くようにして寝ていた。
勉強を頑張って高等女学校を卒業した母は山口で教員資格を取得し、最初に就いた役場の事務員をほどなくやめて小学校の先生になった。3人の子供が十分な教育を与えてもらえたのは、母が安定した教職についたおかげだ。
もっとも生活は貧しかった。食事は米がまばらな汁の中にさつまいもが入ったもので、つまりは主食は芋だった。たまには下関から売りに来る魚を買うこともあり、一通り身を食べた後に、さらに七輪で焼いてカリカリにして、頭も骨も全部食べた。
いつもおなかがすいていたから、赤とんぼやイナゴを捕まえて七輪で焼いて食べた。あぜ道に生えている、すいっぱ(酸葉)という、酸っぱい草も採ってよく食べた。
周辺には農家が多く、農家の人は家が大きく食べ物も豊富で裕福だった。非農家の僕たちは貧しくて、近くの農家で、みんなが入った後の風呂を借りた。そんなことも母が近所に頼んで回った。
小学校の高学年になると、田植えなどの人手が必要な時期に、僕も駆り出されていった。牛の糞(ふん)とわらを混ぜた肥料をまいたり、雑草を刈ったり、稲刈りを手伝ったりした。慣れないから失敗もして、右腕に鎌で切った痕が残ってしまった。姉はその間、農家の子供の子守をした。
手伝いが終わると農家の人が夕飯を食べていけというのを僕は断り、その代わりに「おむすびを4つ作って下さい」と頼んだ。竹の皮に包み、たくあんを添えて持たしてくれた。銀飯と言っていたか、年に何度かの米の飯を母も姉も妹も楽しみにした。自家製たくあんがまたおいしかった。
年に1~2回、農家の人が山や野原で捕まえたウサギやイノシシをお裾分けしてくれて、肉が小屋の食卓をにぎやかにすることもあった。
東厚保の小学校は一学年が8~9人の小さなところだった。みんな家の手伝いに忙しいので、僕を含めて勉強なんかしている人はいなかった。母に絵の描き方や英語の歌などを教えてもらって、僕の成績は良い方だった。
小学校3年か4年のときだったと思うが、水車小屋の近くの小さな橋を通りかかると、6年生の男子が妹をいじめていた。割って入った僕はなぐられて鼻血が出たが、夢中で6年生の手にかみついて離さなかった。6年生はその後、僕をみると逃げた。
秋のお祭りの時期になると大人も子供も、神社などで行われる青年団の芝居や相撲大会で盛り上がった。僕は立ち会いのときに低く出て相手の足の間に入り、持ち上げて倒す戦法で相撲が強かった。学年で優勝すると、先を二つに割った竹の棒に挟んで5円札がもらえた。それがうれしいものだから、賞金稼ぎで近隣の集落の相撲大会があるたびに遠征していった。
貧しかったけれど自然の中での暮らしだから暗い感じはなかった。僕があまり曲がったところがなく、明るく外交的で単純な性格なのは、幼い頃に母に守られ、田舎の山の中で自由に育ったおかげではないかと思うのだ。

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