家のカギなど関係なくこじ開けて入って来るからと、母や姉は、物音がしたら裏口から鶏小屋のほうに逃げる練習をした。
手伝いの中国人につらく当たっていた家では、日本人が仕返しをされたという話を聞いた。ソ連兵は僕や妹ら、小さい子供には優しかった記憶があるが、母や当時8歳の姉は、男に見えるように丸坊主にしていた。
父は召集されたとき、母に必ず僕を日本に連れて帰るよう、言い残して出て行ったという。家の手伝いをしてくれていた中国人は、男手が欲しいこともあったのか、母がいよいよ逃げようというときに「龍を置いていけ、落ち着いたときにまた連れに戻ってくればいいから」と強く勧めたそうだ。僕が利かん坊だったので、母は少しは迷う気持ちもあったらしいが、父が残した言葉に従って僕を連れて帰ることにした。
後に80年代、中国残留孤児の調査が始まってテレビにその報道が毎日のように流れていた時分には、またその後も、残留孤児のニュースを目にするたびに、僕は自分を重ねて食い入るようにテレビを見た。中国に残った人たちは、40年頃(ごろ)に生まれた僕と同じくらいの年の人が圧倒的に多い。
先に何があるのかもわからないまま、足手まといになる小さな子供3人を連れて逃げるのはどんなにたいへんなことだったか、僕には想像もつかない。母は貨物列車に乗って日本への船がある港を目指した。僕はそのとき6歳で、トンネルのすすでみんなが真っ黒な顔をしていたことだけはっきりと覚えている。
引き揚げ船に乗って博多港にたどりつくと、母は父の故郷である愛媛県の宇和島に親戚を頼っていった。父がそうせよと言っていたからだ。しかし、父の生家は戦災で焼かれてもはやなく、父の弟のところに世話になった。
父の家は宇和島藩主の教育係を務め、由緒ある家だったと聞くが、向こうも戦後の混乱のなかで暮らしは楽でなかっただろう。父の行方は分からず、母だけでは縁も薄いから、歓迎されず、居心地はよくなかった。宇和島にいたのは半年ほどで、母は今度は、自分の東京の実家の疎開先だった山口県の厚保(あつ)に、弟を頼って移った。
山あいに開けた農村の、大きな池の近くの2間くらいの小さな家に、母の弟や、東京の生家では母と相性が悪かった継母が暮らしていた。6人くらいが住んでいたところに僕たちの家族4人が転がり込んだ。継母との同居は、また冷たくあたられることになって苦労したと母は後年漏らしていた。
母は役場の事務員の仕事を得て、小川の横の丘の上にある結核療養所だった建物が空いているというので、ほどなくそこに移り住んだ。3棟50部屋くらいのがらんとした大きな建物に、暮らしているのは僕たちともう一家族くらいだった。
そこにも長くはおらず、よく覚えていないが、いくつかの長屋を転々とした。僕が小学校に通う時分には、そこのほうが学校に近いからと、小川の横にある水車小屋に住むことになった。
米の脱穀をするところで、部屋は板の間ひとつ。水車小屋だから隙間だらけの、冬は風がびゅうびゅう吹き込んでくる寒い家だった。
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