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「勝利」しかない専制主義 進む中国の現実離れ

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM108X40Q2A510C2000000

 

5月初めの連休が明けてすぐ、中国でまたタガがはずれた音がした気がした。

中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席が5日に共産党最高指導部の会議で演説し「わが国の防疫政策を疑い、否定するあらゆる言動と断固戦う」と厳命したことを受けたものだ。

事実上の都市封鎖(ロックダウン)下にある上海市でも急きょ市や区で「大上海防衛戦必勝動員会」を開いた。出席した幹部らは口々に習氏を称賛し、一層厳しい姿勢でゼロコロナに臨む決意を表明したという。

 

言葉だけでなく、実際に理不尽さは加速した。陽性者と同じ棟に住むだけで陰性でも隔離施設送りになる措置も出た。市民の不満は募る一方だが、上海に許されたゴールはひとつしかない。感染を抑え込み「上海市民の勝利」を皆でたたえ合う未来だ。

中国の人たちはなぜ政府の無理難題に唯々諾々と従うのか――。彼らの思いを推測する言葉として「ニラ」というネット用語がある。「刈っても刈っても生えてくる代替可能な存在」。庶民の自嘲表現だ。

中国で人民が政治に関わる機会はほぼない。そもそも中国には西側諸国のような「政治」もない。あるのは党内の権力闘争だけだ。

庶民も生活に直結する問題では時に声をあげる。党中央の耳に届けば地方の役人が処分されたりもする。

上海でも「食べものがない」「通院できない」という激しい怒りの声が現場の職員らにぶつけられた。これを受け、新型コロナ収束後は役人の処分が相次ぐだろう。だが、それだけだ。命を落とした人々や壊された生活が検証されることはおそらくない。市民らも政権の責任など追及することなく日常に戻っていく。

人口学者のエマニュエル・トッド氏は中国の社会構造を「家父長を持つ農村の外婚制共同体家族」と説明した。「絶対的な父」に従う権威主義には伝統的になじみがあり、思考を止めて党の指導に従う体制への抵抗は少ないといえる。

それでも1989年6月、若者たちは自分たちの手で政治を変えられる時代が来たと考え天安門広場に集った。それは勘違いだった。党はまったく変わっておらず、敵でもなければ武装もしていない学生たちを戦車や銃で弾圧した。

だから、再び人々は「ニラ」になった――。生きていくため。家族のため。

今回の上海ロックダウンを受け、世界では中国経済が致命的な打撃を受けるとの見方が優勢だ。それも習氏にとっては必要な犠牲であり敗北ではないだろう。

そして改めて感じるのは「負けた」と言える日本の恵まれた状況だ。だからといってそれで終わっていては意味がない。コロナ禍を通じてあらわとなった日本の数々の問題の検証と改革は進んでいるのだろうか。

加えてその改革を考えるプロセスには多くの市民も参画しなければ民主主義社会とはいえない。自由は責任と義務を伴う。それでも「ニラ」ではなく「考えるアシ」でいたいと思う。